竹富
たけとみ

沖縄らしさは茅から瓦へ

沖縄の原風景に出合える島、竹富。……しかし「沖縄の原風景」って、どんなものなのでしょう。沖縄の象徴とされる赤瓦は明治中期以降に普及したもので、実は100年ほどの歴史しかありません。それ以前の茅葺き民家が残る風景こそ、沖縄の原風景といえるのではないでしょうか。

【1】本土と同じく、沖縄の集落にも茅葺き屋根の家はありました。しかし茅屋根は台風に弱く、大風のたびに吹き飛ばされたといいます。
【2】沖縄で民家に瓦の使用が認められたのが明治20年代のこと。竹富島では明治30(1897)年ごろに導入されました。
【3】屋敷を囲む石垣、隣家との境目に植えるフクギなどは、防風・防火用のものです。
【4】路面が舗装されていないのは水はけをよくするためです。

竹富島は島の中心部に東、西、仲筋の3集落があり、いずれも近接してひとつの大きな村のようになっています。ここにはサンゴ石の石垣、フクギの屋敷林、赤瓦の家が数多く残されています。


なごみの塔から俯瞰した家並み(西集落)

茅葺きの家(西集落)

西集落に1軒だけ、茅葺きの家が残されていました。沖縄で茅葺きというと珍しく思われるかもしれませんが、実は本土と同じく沖縄も庶民住宅は茅葺きが基本でした。しかし茅葺きの家は台風に弱く、明治20年代に瓦の使用が解禁されると徐々に赤瓦屋根に葺き替えられ、いまでは全県で消滅寸前のところまで追いやられています。

茅葺きに取って替わった赤瓦の家並みも、米国占領末期には存続が危ぶまれました。竹富島ではもともと過疎化と高齢化が進んでいたおり、1971(昭和46)年の干ばつと巨大台風によって島の農業は壊滅的な打撃を受け、それに乗じて県外資本による土地の買占めが横行。本土復帰(1972年)に前後して、島の20パーセントの土地が売られたといいます。
昔ながらの風景が失われゆくことに危機感を抱いた人々は、長野県妻籠(つまご)の町並み保存憲章にならい、「売らない」「汚さない」「乱さない」「壊さない」「生かす」という『竹富島憲章』を策定し、町並み保存に乗り出しました。


重要文化財、旧与那国家住宅。1913(大正2)年築(東集落)


直射日光による熱を下げるため、屋根に土を塗りごめている(旧与那国家住宅)


柱の土台にはサンゴ石が使われている(旧与那国家住宅)


なごみの塔は定番の観光地(西集落)

農業の島から、古い町並みを生かした観光の島へ。大きく舵を切った竹富島では、平成に入るころから観光客が増加しました。観光客相手の仕事も増えたため、UターンやIターンによる定住者も増加。全国の離島で人口流出が続くなか、1991年の251人から2013年には358人へ、直近の22年間で1.4倍も増えています。

集落の外れまで来れば観光客も少ない(仲筋集落)
しかし観光業の発展は、いいことばかりをもたらすとは限りません。2007年に株式会社星野リゾート(長野県)がリゾートホテルの開発計画を発表すると裁判沙汰になりましたし(2012年開業)、現在では水牛車観光の安全性の確保が争点となって、島を二分する議論に発展しています。
時代が大きく移ろい、産業が様変わりしてもなお、農村集落としてのたたずまいを維持するのは難しいことなのでしょう。


水牛車観光への告発文の前を牛車が通っていった(東集落)


【住所】沖縄県八重山郡竹富町竹富
【公開施設】旧与那国家住宅
【参考資料】
『写真でみる民家大事典』 柏書房、2005年
『証言・町並み保存』西村幸夫・埒正浩編著、学芸出版社、2007年

2014年7月1日撮


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