祖納
そない

朱と緑のツートンカラー

琉球国の最西端、与那国島の中心都市が祖納です。ここは国全体で見ても、首里、石垣四箇に次いだ「都市的集落」とされ、赤瓦の家並みが果てしなく広がっています。

【1】沖縄らしい、赤と緑の集落景観。緑は庭木としておなじみのフクギです。
【2】祖納集落は傾斜地に展開するため、赤瓦の家々が折り重なる景観が見られます。
【3】ところで、赤瓦の古民家もいいですが、わたしが祖納で見たかったのは茅葺きの家でした。手元の資料には「茅葺き民家が多い」とあったので期待していたのですが、もはや1軒もありませんでした。みな赤瓦に置き換わってしまったようです。

日本最西端の与那国島は人口1,500人あまり(2014年現在)。その歴史は伝説に彩られ、琉球国の配下に置かれた15〜16世紀のことも定かではありません。最も有名な伝説が女傑サンアイ・イソバに関するもの。西暦1500年ごろに島を支配していた彼女は、身長が2メートル40センチもあり、祖納集落の西にある岩山ティンダハナタに住んで、日がな一日島を見わたして過ごしたといわれます。


集落背後にそびえる岩山がティンダハナタ

ティンダハナタから見た祖納集落

ある日、悪夢にうなされて飛び起きたサンアイ・イソバは、島の東の村々が炎上しているのを目撃しました。宮古島の仲屋金盛の軍勢によるもので、イソバはこれを撃退しました。宮古島の旧記『忠導氏家譜』に、「明の弘治年間(1488〜1505年)に兵船を遣わして与那国島を攻めさせたが、津口に入れず帰帆した」とある史実と一致する伝説です。
サンアイ・イソバは本土におけるヒミコのような存在だったと考えられています。本土が室町時代を迎えてもなお、与那国島はおおらかな伝説の時代を生きていたのですね。

祖納は与那国島に3つある集落のひとつで、町役場を擁する中心集落です。琉球の集落形成研究の第一人者である高橋誠一は、祖納は琉球国で首里、石垣四箇に次ぐ「都市的集落」だったと指摘しています。集落の成立は16世紀。近隣の旧与那原村や旧浦野村からの移住者によって開拓され、のちに旧嶋仲村の住民も加わりました。


入福浜家住宅。大正初期の建造

ティンダハナタから俯瞰すると、鉄筋コンクリートの建物に混じって、赤瓦の家が相当数残っていることがうかがえます。そのひとつ、国登録有形文化財の入福浜(いりふくはま)家住宅は民宿を営業中で、宿泊時に大正時代の座敷を見学させていただきました。

最も格の高い部屋・一番座は欄間彫刻も凝っている。左が二番座


縁側の外のアルミサッシは後補

今回の祖納行きで期待していたのが、茅葺きの家です。参考資料の『日本の文化的景観』(2005年)には「瓦屋根の民家に混じって茅葺き屋根の民家が多く見られる」とあるのですが、わたしが訪れたときには1軒も残っていませんでした。
沖縄は台風の影響を強く受けるため、茅屋根の残存率は日本でもとくに低い地域です。瓦屋根への改築はやむを得ないことだと思いますが、それならばせめて、赤瓦の集落景観を未来に伝えてもらいたいと思いました。

集落の北東部にはフクギが密に植えられている

赤瓦の家が密集する一画

登録有形文化財、久部良(くぶら)家住宅。明治中期の石垣島の役宅を1940(昭和15)年に移築した
祖納の伝統民家の多くは現在も居住中であるため、改装も進んでいますが、昔ながらの雨戸や雨端(あまはじ)柱をもつ家も見かけました。フクギの屋敷林や御嶽(うたき)など、歴史的風致もよく残されています。重要伝統的建造物群保存地区にも匹敵すると思いましたが、最果ての島はそんな保護政策には無頓着で、いまもおおらかな時の中を生きているように感じました。
登録有形文化財、東迎(とうげい)家住宅。1953(昭和28)年築

木の雨戸や丸木の雨端柱が残る家

NTT西日本与那国電話交換局


【住所】沖縄県八重山郡与那国町字与那国50〜300番地付近
【公開施設】なし
【参考資料】
『与那国の歴史』池間栄三著、琉球新報社、1972年(復刊)
『日本の文化的景観』文化庁文化財部記念物課監修、同成社、2005年
「琉球における集落景観と伝統的地理観」高橋誠一著、『南島史学』第68号(2006年10月)所収

2014年6月28日、29日撮


戻る