金城
かなぐすく
すべての道は首里に通ず
首里城の南西に、琉球国時代の面影を残す金城町石畳道があります。全長はおよそ300メートル。道の両側には沖縄らしい赤瓦の家が並んでいます。 |
【1】首里は丘の町。足もとを固めるため、道には直径20〜30センチの石が敷き詰められています。 |
琉球国は首里城下の主要道を石畳で整備しました。多くが沖縄戦で破壊されましたが、城の南西の金城で往時の石畳道を見ることができます。全長およそ300メートルの急坂の道で、ガイドブックにも掲載され、いまや観光名所にもなっています。 |
傾斜が急なところでは階段がつくられている |
石の表面にわずかに溝が残る |
金城の石畳道は嘉靖元(1522)年に整備されました。首里城に向かう急坂を整備したため表面は小叩き仕上げ、つまり、いったん滑らかに整形したのち、のみで平行線を入れて仕上げられています。この横溝は滑り止めのもので、琉球国で広く採用されました。現在ではかなり磨り減っていて見分けがつきにくくなっていますが、石畳道の下のほうで名残を見ることができます。 |
道の両側には士族屋敷が連なり、高さ2〜3メートルもの石垣の中に赤瓦の家が建っています。1996年には道の中ほどに赤瓦の集会所、金城村屋(かなぐしくむらやー)が完成しました。伝統工法によって建てられ、観光客の無料休憩所としても開放されています。 |
金城村屋 |
それにしても、沖縄戦で大打撃を受けた首里にあって、この一画が昔のままに残されたことは奇跡的です。平成に入り首里城は再建され、昔のように石畳道を進んで城内に至る動線も復活しました。 琉球王府が編纂した歌集『おもろさうし』には、「見れども飽かぬ首里親国」という首里の美称があります。この美称が決して大げさなものでなかったことは、金城の石畳道や再建された城郭を見れば明らかです。 |
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<おもろさうし巻1の7> |
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<訳> 名高く霊力豊かな聞得大君(きこえおおきみ、琉球国時代の最高級神女)、とよむ精高子(せだかこ、聞得大君の異称)が、首里もりぐすく、真玉もりぐすくでお祈りをしたもうたからには、首里王城を守る十嶽(とたけ、首里城内にある10の御嶽〈うたき〉)は勝れたまいて、見ても見飽きることのない立派な首里親国(首里の美称)であることよ。 |
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ところで金城の地名は現在「きんじょう」と読みますが、沖縄語による発音は「かなぐすく(かなぐしく)」。本土復帰後、いつの間にか「きんじょう」という読み方が定着し、現在の正式町名も「しゅりきんじょうちょう」と言います。 弊サイトでは地域に伝わる読み方で表記させていただきました。 |
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2014年7月2日撮影 |