今泊
いまどまり

城下の風格

沖縄北部の要衝、今帰仁(なきじん)城下の港町が今泊です。集落の中央を貫く大道(ぷーみち)はかつての馬場。沖縄に現存する最古の馬場といわれ、ほかの町にはない風格を漂わせていました。

【1】幅10メートル、長さ370メートルの馬場。いつごろ整備されたものか分かりませんが、沖縄で最古の馬場といわれています。ここでは豊年祭や、庶民の娯楽である琉球競馬が開催されました。
【2】赤瓦の家は少なく、セメント瓦が普及しています。沖縄島北部の典型的な景観です。
【3】今泊はフクギが多く植えられた集落。馬場沿いにはそれほど見られませんが、脇道に多数残り、幹周り1メートル以上の木が1,000本以上あります。

沖縄島は14世紀前半、北山(ほくざん)、中山(ちゅうざん)、南山(なんざん)の三山分裂時代を迎えました。このうち北山の拠点となったのが今帰仁城ですが、城の成立に関しては不確かなことが多く、歴史書を見てもほとんどが空白時代となっています。
沖縄の戦国時代はおよそ1世紀続き、1416〜22年にかけて尚巴志(しょう・はし)率いる中山軍に北山と南山が併合され、全島が統一されました。今帰仁には統一後も「北山監守」という役職が置かれ、北部統治の拠点であり続けました。


曲線を描く城壁を残す今帰仁城跡

路地裏のフクギ

今帰仁城から北へ1キロ、東シナ海に面した集落が今泊です。万暦37(1609)年、薩摩軍の攻撃で今帰仁城の城下町が炎上し、当地に移転して成立した集落だと考えられています。
今泊集落を特徴づけるのが見事なフクギの屋敷林。交易船が停泊した志慶真(しげま)川の河口部にはひときわ大きな3本のフクギが並び、港の目印になっていたと見られています。港自体は城下町が移転する前から存在したようで、北山王はここを拠点に日本や明、東南アジア諸国とも交易を行っていました。


志慶真川河口のフクギ

幹周り3メートル以上のフクギのある家


セメント瓦葺きの家が多い

今泊は東西900メートル、南北600メートルもある大きな集落です。もとは西半分が今帰仁(なきじん)、東半分が親泊(おやどまり)と別々の集落でしたが、1903(明治36)年の土地整理にともない合併されました。
集落では東西方向に琉球国の主要道路だった宿道(すくーみち)と、馬場として使われた大道(ぷーみち)が並走しています。


宿道は幅2メートルほどの細道。両側にフクギ並木が続く

競馬や豊年祭の会場となった大道。右の巨樹がコバテイシ

大道は沖縄の集落では特異な存在。幅10メートルの文字通りの「大道」で、一直線に延びています。ここでは伝統的な琉球競馬が開催されたほか、豊年祭や集会も行われました。ほぼ中央に植えられた樹齢300〜400年のコバテイシのあたりが、かつては集落の寄り合いの場だったのでしょう。
ちなみに琉球競馬は、速さではなく走る姿の美しさを競い、騎手だけでなく馬も伝統衣装に身を包んで競技しました。馬は琉球国にとって重要な動物で、明・清への朝貢品にもなっていたほどです。歌集『おもろさうし』にも、馬を詠んだ歌がいくつか採録されています。

<おもろさうし巻13-150>
一 あやきうまに
  あやきくら かけて
  あやきぶち とらちへ
  おゑたてゝ はりやせ ゑ やれ
又 くせきうまに
  くせきくら かけて
  くせきぶち とらちへ

<訳>
美しい毛の馬(綾毛馬〈あやきうま〉、奇せ毛馬〈くせきうま〉)に、美しい木の鞍(綾木鞍、奇せ木鞍)を掛けて、美しい木の鞭(綾木鞭、奇せ木鞭)を取らせて、追い立てて走らせよ。ゑ、やれ(はやし言葉)

目を閉じると、鮮やかに着飾った駿馬が、詰めかけた村人の歓声が、間近に迫ってくるような・・・。そんな幻にひたりながら今泊をあとにしました。


【住所】沖縄県国頭郡今帰仁村今泊
【公開施設】なし
【参考資料】
「沖縄島およびその近海離島における福木屋敷林の地域特性」安藤徹哉・小野啓子・凌敏著、『日本建築学会計画系論文集』第75巻657号(2010年11月)所収
『角川日本地名大辞典(47)沖縄県』角川書店、1986年
『おもろさうし(下)』外間守善校注、岩波文庫、2000年

2014年7月5日撮影(今帰仁城跡のみ05年1月8日撮影)


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