鳩間
はとま

西表に対峙する

鳩間島は西表(いりおもて)島の北に浮かぶ小さな島。最盛期でも人口は100人少々だったといいますが、西表島と小浜(こはま)島を同時に見ることができるため、琉球国の国防上きわめて重要な島でした。

【1】沖縄でおなじみの赤瓦の家が点在しています。
【2】海を隔てて横たわる島影は、八重山諸島最大の西表島。最も近いところで5キロしか離れていません。
【3】こんもり茂る緑の下に鳥居が見えます。比川御嶽(ひないうたき)です。島に5つある御嶽のうち唯一、集落の中にあり、豊年祭もここで営まれます。

鳩間島は西表島の北に浮かぶ属島。周囲3.8キロ、面積1平方キロの小島で、集落は島の南部にひとつだけ存在します。起源は定かではありませんが、順治4(1647)年の「琉球并諸島図」に「鳩間嶋 人居有」と書かれており、康熙39(1700)年に黒島から60人、その3年後に西表島から150人が移住した記録があります。
琉球国時代、島の人口は100人前後で推移し、戦後の最盛期には600人ほどにまで膨れあがりましたが、いまは50人ほどです。

鳩間島はテレビドラマ『瑠璃の島』(日本テレビ系列・2005年)のロケ地となってから観光客が増加し、石垣島から往復する船便も増えました。それでも観光開発はまったくといっていいほど行われておらず、沖縄の離島らしさを満喫できます。

集落は全戸の半分ほどが伝統的な方形屋根の平屋で、多くはヒンプン(魔除けのついたて)をもちます。防風のためフクギも密に植えられ、集落には緑があふれています。屋敷地を囲う石垣はサンゴ石を積んだ伝統的なもの。主屋が建て直されても、ブロック塀に更新されることは少ないようです。


森の中にあるような雰囲気の家


浜辺の家は高波を避けるためか、敷地が高い


屋根をトタンで直した家もあるが、石垣や屋敷林は昔のまま

ヒンプンのない家


民家の庭に建つヤシの葉葺きの東屋


集落の背後には中森と呼ばれる小高い丘があります。丘の中腹には友利御嶽(ともりうたき)があり、その参道を横目にさらに登ると、琉球国が建てた見張台の火番盛(ひばんむい)に行き着きます。
島内最大の御嶽、友利御嶽

中森の火番盛

火番盛からの眺め
17世紀、江戸幕府が急いだ鎖国政策の余波は、はるか南方の琉球国にまで及びました。当時の琉球は薩摩藩の配下に組み込まれ、江戸幕府はヨーロッパ諸国の琉球侵攻を警戒していました。崇禎17(1644)年、薩摩藩の要請を受けた尚賢王は烽火(ほうか/のろし)の制を定め、以後八重山・宮古諸島の島々では外来船を見張るようになりました。
記録によると、琉球と清の船が漂着したときは烽火2つ、大和船は烽火3つ、外国船は烽火4つを上げることになっていました。烽火は島から島へリレーされ、最終的に石垣島の役所へ伝えられました。鳩間島は、西表島に上がった烽火を小浜島に伝える役目を担いました。地図で見れば小さな鳩間島ですが、国防上重要な中継拠点だったのです。
船着場から見た西表島と小浜島(左奥)


【住所】沖縄県八重山郡竹富町鳩間
【公開施設】なし
【参考資料】
『沖縄八重山の研究』法政大学沖縄文化研究所沖縄八重山調査委員会著、相模書房、2000年

2014年6月30日撮


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