波照間
はてるま

塀も壁も石積み

波照間島は全島が古い景観をとどめる島で、全243棟の主屋のうち、木造寄棟のいわゆる「沖縄風民家」が105棟(43%)もあります。

【1】集落の街区はサンゴ石を積んだ石垣で区切られます。一部、切石を組み上げた石垣をもつ旧家もあります。
【2】主屋の外壁を板や石でつくるのが伝統的な工法。昭和以降、コンクリートで部分的ないし全面的に補強する家が現れました。
【3】波照間の集落景観の特徴が、この炊事棟。外壁は石でつくられていて、物置に転用されても創建時の姿をとどめるものが多くあります。

波照間島は日本の最南端にある有人島です。福岡よりも香港やマニラに近く、北回帰線までわずか65キロのところに浮かんでいます。島内には名石、前、南、北、冨嘉(ふか)の5集落があります。このうち冨嘉を除く4集落が島のほぼ中央にあり、冨嘉はそこから400メートルほど西に位置します。


集落景観(冨嘉集落)

集落景観(名石集落)

波照間島はマラリアなどの風土病がなく、八重山諸島の中では比較的住みやすい土地でした。「西表(いりおもて)島から移住した人によって開かれた」という言い伝えもありますが、調査の結果、2世紀以降ほぼ途切れることなく人が住み続けてきたことが分かっています。
琉球国の配下に置かれてからは、石垣島や西表島へ開拓のため、波照間島の住民を強制移住させる寄百姓(よせひゃくしょう)が何度か行われました。このことからも、波照間島がいかに豊かな島だったかが分かります。


集落景観(北集落)


波照間島の古民家(前集落)

島の家はもともと茅葺きでしたが、明治以降に瓦に葺き替えられました。現存する最古級の家は外壁を板や石でつくっています。
1938(昭和13)年ごろから、建物の四隅のみをコンクリートで補強する家が現れ、その後は竹筋(ちくきん)コンクリート、鉄筋コンクリートなども普及しました。


外壁を石でつくっている古い家。1918(大正7)年築(前集落)

建造年が分かる家として現存最古のA家住宅。1912(明治45)年築(冨嘉集落)


入口を切石積みとする。2・3代竹富町長・仲本信幸生家(冨嘉集落)


分棟型の家が並ぶ。左手前の炊事棟は石壁(北集落)

住宅は分棟型で、敷地内には主屋のほか炊事棟、フール(豚小屋)、便所など、いくつもの付属屋が建ちます。炊事棟は火を扱うため石壁でつくられました。戦後、ガスの普及によって主屋内に台所を設ける家が増えても、物置に転用されて残ったケースが多く、波照間の集落景観の主たる構成要素となっています。


木立に囲まれた拝所(うがんじゅ)(南集落)


5棟のフールをもつ家(南集落)
ところで、波照間島には1棟だけ茅葺きの建物が残されています。旅客ターミナルの近くにある拝所(うがんじゅ)のイナサイですが、わたしが訪問したときには屋根が朽ちかけ、痛々しい姿をさらしていました。高温多雨地帯で茅屋根を維持するのは、並大抵のことではないのですね。
石壁、茅屋根のイナサイ。もはや崩落寸前だ

集落の外には墓地がある。沖縄の離島で普遍的な土地利用

サトウキビ畑にある小高い丘は、琉球国時代の見張塔(コート盛)


【住所】沖縄県八重山郡竹富町波照間
【公開施設】なし
【参考資料】
『波照間島の民家と歴史的集落景観』沖縄県竹富町教育委員会、2009年

2014年6月30日撮


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