手打麓
てうちふもと
大和と琉球のはざま
手打は江戸時代に武家が集住した地域。しかし鹿児島藩の武家は半士半農で、ふだんは農作業をして暮らし、地頭の指示を受けたときのみ任務にあたっていました。 |
【1】手打麓では東西方向の道は馬場、南北方向の道は「すーじ」といいます。馬場は鹿児島藩の麓集落に多い幅広の道、すーじは沖縄語で路地(小路)のことで、ここが大和と琉球のはざまにあることを教えてくれます。 |
手打麓は下甑島の最南端にある町。半円形の手打湾に面し、海岸線に沿って弧を描く馬場通りに家が並んでいます。 | 円弧を描く手打湾の浜 |
下甑郷土館の敷地に建つ旧和田家住宅 |
どの家も玉石垣を組んで敷地を区切り、その中に主屋を建てています。「おまい」と「なかい」の2棟からなる分棟型がこの地方の伝統様式で、下甑郷土館の旧和田家住宅でその構造を見ることができます。 |
旧和田家は建築年の情報がありませんが、明治時代までは茅葺きだったそうです。向かって右の「おまい」には4部屋があり、土間はありません。左の「なかい」は炊事棟。半分が土間になっていて、大きめの囲炉裏や流しをそなえ、土間には無双窓がしつらえられています。 | 旧和田家「なかい」 |
旧和田家「おまい」 |
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すーじの景観 |
この旧和田家住宅をはじめ、手打麓の家は寄棟造りの平屋が多く、緑濃い植栽とともに、何となく沖縄を思わせる町並みが続いていました。事実、江戸時代には、琉球国から天草や長崎へ向かう船は甑島列島に寄港していたといいますから、ここは大和と琉球の文化が交錯する場所だったのです。小路を沖縄語と同様に「すーじ」というのが、何よりの証拠です。 |
沖縄の民家によく似ている |
敷地を高くするのは県内のほかの武家屋敷に共通する |