都農
つ の

参勤交代の道に沿って

都農は日向灘に沿って豊後街道が走る町で、江戸時代に御仮屋(本陣)が置かれました。現在でも幕末の本陣建築をはじめ、数棟の町家が残り、在町としての雰囲気をとどめています。

【1】旧豊後街道。江戸時代、佐土原藩、飫肥(おび)藩の参勤交代に使われました。
【2】旧道に面して古い商家が点在します。ここは在郷町として栄えました。
【3】正面に半間の下屋を出す家が散見されました。この家は全面、千本格子を入れています(写真がツブれていてすみません)。多くの家が外構を手直しする中、貴重な存在です。

児湯郡都農町は1889(明治22)年、旧都農町と旧川北村が合併して成立。以来、一度も合併を行っていない数少ない自治体のひとつです(1920=大正9年までは都農村)。成立時には都農、川北の2大字がありましたが、明治後期ごろまでに川北のみとなり、現在でも都農町には大字川北しかありません。


豊後街道沿いの町並み


右端が赤木家住宅

都農町(ないし大字川北)の中心部が、町役場や都農神社のあるあたりで、江戸時代には川北郷とは異なる在町として町方支配を受けました。このあたりは日向国の一宮でもある都農神社の門前町として発展した集落と思われ、南北に走る豊後街道に沿って町並みが展開します。元禄3(1690)年には御仮屋(本陣)が置かれ、佐土原藩と飫肥藩の藩主が参勤交代の折、宿泊しました。

天保8(1837)年より本陣として許可を得たのが赤木家。その7年後に建てられた主屋が現存し、国の重要文化財に指定されています。高鍋藩主の秋月氏が宿泊したほか、文久3(1863)年から2年続けて薩摩藩主の島津久光も宿泊しました。


赤木家住宅


赤木家住宅のはす向かいの家並み

現在の町並みは非常に断片的ですが、赤木家住宅周辺と、そこから北へ200メートルほどの報恩寺周辺(トップ写真付近)、南へ300メートルほどの北新町交差点付近に、複数の町家がまとまって見られます。


北新町交差点付近


北新町交差点付近


【住所】宮崎県児湯郡都濃町川北4800番〜4900番台(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(45)宮崎県』角川書店、1986年

2015年5月7日撮影


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