高岡麓
たかおかふもと

切石積みの麓集落

薩摩藩の外城(とじょう)のひとつ、高岡郷の中心集落だった高岡麓(天ヶ城麓)は、初期の麓集落の町割を留める集落といわれています。主屋は少なくなりましたが、武家門はまだまだ健在です。

【1】道路が直線・直角に引かれています。これは薩摩藩の麓集落の中でも、とくに古い特徴といわれています。
【2】伝統的な主屋は少なくなりましたが、武家門は比較的多く残されています。ちなみにこの門は、中央開口部の脇にくぐり戸がありません。禄高80石未満だったことが分かります。
【3】敷地を区切るのは、この地方で採れる高岡石の石塀です。麓集落の多くで生垣や玉石垣が採用されている中、独特の景観を形成しています。

薩摩藩は領内を100以上の外城(郷)に分割して地方自治を行っていました。各郷の中心集落が麓と呼ばれ、ここ高岡麓は高岡郷の政治拠点だった集落というわけです。高岡麓は薩摩藩の中でも初期の町割を残すといわれていますが、現在の景観は幕末のころのものです。


高岡麓の石垣

江戸時代を通じて、高岡郷では石垣が認められておらず、竹垣がつくられていました。幕末になるとこの禁制が緩んだのか、次第に石垣がつくられるようになります。その際に使われたのが当地で採れる高岡石で、これを成形して積み重ねました。薩摩藩のほかの麓集落では、こうした切石積みの石垣は少なく、独特の印象を与えます。

武家門としては河上家や安藤家のものが規模が大きく、町指定有形文化財になっています。とくに河上家武家門は正徳元(1711)年の建造と際立って古く、たいへん貴重なものです。


安藤家武家門(裏側)


河上家武家門

市来家長屋門

市来家長屋門は高岡麓で唯一の長屋門です。門と長屋部分の棟の高さが異なるのは、より古い形態を留めているためとされています。

このように門は比較的多く残されているのですが(それでも江戸期にさかのぼるものに限れば、武家門は5基、長屋門は1基のみ)、主屋は現存例が非常に少なく、移築復元された吉本家のほかは1軒しかありません。右写真のように、門の奥に新築住居が建つのが、現在の高岡麓の景観となっています。


【住所】宮崎県宮崎市高岡町内山(地図
【公開施設】高岡天ヶ城麓地区武家住宅(旧本吉家住宅)

2015年5月7日撮影


戻る