飫肥
お び

石垣は整然として茶を植える

飫肥は蛇行する酒谷(さかたに)川に三方を囲まれ、残る一方に山並みが迫る天然の要害。織豊期に整備された城下町は、いまも往時の姿をよく残しています。

【1】屋敷を区切る石垣の上に茶を植えるのが飫肥流です。茶は飲用に供したものでしょうが、詳しい由緒は分かりません。
【2】石垣のところどころに武家門が口を開けます。石垣を高く構えた家の中には門をもたないものもあります。
【3】道の両側に水路が引かれています。後馬場通りでは町づくりの一環として、1983(昭和58)年に鯉が放流されました。

飫肥は80年以上にわたり、島津氏と伊東氏が領有を争った土地。最終的には、豊臣秀吉の九州平定に協力した伊東氏のものとなりました。伊東氏は早速城下町の整備に着手し、碁盤目状に道路を設計。飫肥城に近い街区から順に上級武士、中級武士、町人、下級武士を住まわせました。
以下、順番にご紹介しましょう。


飫肥城大手門に通じる大手門通り


横馬場通り

飫肥城に最も近い道が、上級武士が住んだ横馬場通り。旧伊藤伝左衛門家、旧斉藤家などの屋敷が威容を誇っています。石垣の上に板塀を重ねた家も多く見られ(ただし歴史的なものは少ない様子でした)、飫肥城下の中でもとくに拡張高い町並みとなっています。


旧斉藤家住宅。現在、空き家


横馬場通りの旧伊藤伝左衛門家住宅

横馬場通りの1本南が飫肥街道。ここも上級武士の住んだエリアでしょうか、石垣と武家門が点在していました。ただしこの道は後代に拡張されたようで、古い家並みは通りの北側にしか見られません。


飫肥街道のI家住宅


後町通りの町並み

さらに南の後町(うしろまち)通りには、飫肥で最も美しい石垣をもつといわれる旧小鹿倉家が建ちます。この家、出入口は後町通りに直交する大手門通りにあるのですが、武家屋敷におなじみの武家門がありません。参考資料には「石垣が高く積まれている場合は門を設けない」とありましたが、防犯上、問題はなかったのでしょうか。
実は小鹿倉家のほかにも、飫肥では、後代の撤去ではなく、当初から武家門がなかったと思われる家が多く見られました。


後町通りの家。長屋門を改築したものか


小鹿倉家住宅。アプローチに門がない

後町通りの南が本町通りです。かつての町人地ですが、国道として拡張され、古い町並みは見られません。
さらに1本南が、下級武士が暮らした前鶴通り。切石積みや玉石垣も残っていますが、石垣は横馬場通りよりも小規模でした。


前鶴通りの町並み


【住所】宮崎県日南市飫肥4〜10丁目(地図
【公開施設】豫章館、旧山本猪平家(小村寿太郎侯誕生之地)、旧伊東伝左衛門家、振徳堂
【参考資料】
『未来へ続く歴史のまちなみ』ぎょうせい、2001年
「日南市歴史文化基本構想 概要版」日南市教育委員会、2011年

2007年1月5日撮影


戻る