臼杵
うすき

“豊後のローマ”の歴史は遠く

臼杵はキリシタン大名・大友宗麟が築いた城下町。かつてはキリスト教布教の拠点となり、豊後のローマとも呼ばれましたが……。

【1】「臼杵七島」と呼ばれるように、臼杵は小高い丘の多い土地です。この写真を撮った二王座地区は丘を削って開かれました。
【2】二王座は古い武家町で、板塀や土塀、武家門などが残されています。
【3】町のあちこちで見えるのは寺院の大屋根。キリシタン大名が治め、布教拠点にもなったという歴史は、はるか遠い過去のものとなりました。

臼杵の歴史は江戸時代前後で大きく異なります。まず、戦国期の永禄5(1562)年以降、キリシタン大名の大友宗麟が丹生島城を築城し、城下町の整備に着手しました。宗麟は明やポルトガルと交易を行ったほか、キリスト教の布教を行い、臼杵は「豊後のローマ」と呼ばれるほど栄えたといいます。しかし豊臣秀吉によってキリスト教が弾圧されると勢いを失ってしまいました。


臼杵は起伏に富んだ地形上に広がる町(本丁)


丘陵地の武家町(二王座)

慶長5(1600)年には稲葉氏が入部し、近世城下町としての歴史を歩み始めました。現在の町並みはこれ以降に再整備されたものです。城下では、海に近い北部に町人町が、それを囲む二王座、海添(かいぞえ)、祇園洲に武家町がつくられました。

武家町ではしっくい塗りの土塀や玉石垣が延々と続いていますが、臼杵の特徴といえるのが凝灰岩の切石積みの石塀。当地で産する石を利用したもので、海添で比較的よく現存しています。また、二王座では凝灰岩による石垣もこしらえられており、ほかの武家町にはない独特の風合いをかもし出しています。


凝灰岩の石塀が続く武家町(海添)


旧丸毛家住宅、庭園(海添)


旧稲葉家下屋敷の土塀(祇園洲)


小手川酒造の店舗。奥が醸造蔵(浜町)

町人町では浜町周辺に伝統的な町並みが残されています。とくに作家・野上弥生子の生家でもある小手川酒造は、道の両側にしっくい塗りの豪壮な店舗や蔵を並べ、圧巻です。建築的には店舗がおもしろくて、1階にはくぐり戸付き大戸や、明かり取りのための障子戸、下見板張りの腰壁など、変化に富んだ外観を見せています。

臼杵は寺町としても魅力的なエリアで、二王座の丘陵地には大寺院が多数集まっています。また、臼杵川沿いの平清水(ひらそうず)では龍源寺の三重塔がそびえ、まるで京都の町角のような雰囲気です。


龍源寺三重塔(平清水)


多福寺の建築群(二王座)

長屋門(右)と洋館が建つ路地裏(二王座)

このように臼杵には武家町、町人町、寺町が広範囲に残されており、しかも道路が地形に合わせて不規則に引かれているため、ひと通り巡るだけでたっぷり4〜5時間は要することでしょう。これほど規模の大きな「古い町並み」も、そうそうあるものではないと思います。


町人町の町並み(掛町)

木造3階の料亭(唐人町)


【住所】大分県臼杵市臼杵、福良、二王座、海添(地図
【公開施設】旧丸毛家住宅、旧臼杵藩主稲葉家下屋敷、旧平井家住宅、野上弥生子文学記念館、旧真光寺
【参考資料】
『臼杵 うすきの歴史的環境と町づくり観光計画』観光資源保護財団日本ナショナルトラスト、1986年

2009年12月26日撮影


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