中津
なかつ

先哲の足跡刻む城下町

福岡県との県境に位置する中津は織豊期以来の城下町。広範囲にわたって町人地や寺町が残されています。

【1】平入り商家が連なる諸町(もろまち)。江戸期、多職種の町人が居住したことが町名の由来です。
【2】諸町には武士も居住しました。地区の西側(写真奥)が旧武家町で、いまも門や塀をもつ家が見られます。
【3】2013年に修復された旧宇野屋住宅。これまで中津の町歩きといえば、中津城から福沢諭吉旧居界隈にかけてや、その南の寺町がおなじみのコースでしたが、これがきっかけとなって諸町にも注目が集まるといいですね。

中津の城下町としての歴史は、天正16(1588)年の黒田孝高(よしたか)(通称・官兵衛)の入部に始まりますが、町並みの骨格がつくられたのは、それからおよそ30年後。小倉藩主の細川忠利が中津に隠居し、城下の町割を整備して14町が成立しました。細川氏が熊本へ移封になると小笠原氏が入り、寛文年間(1661〜73)までに城下町がほぼ完成したとみられています。


諸町の商家


諸町の町並み

中津の城下町は中津城付近から中津駅付近まで広範囲におよびますが、最も連続した町並みを残すのが諸町です。全長400メートルほどの一直線の道で、職人や商人など多種の町人が暮らしたことが町名の由来。町の西には武家町もありました。

諸町の東側に、江戸期の建物を活用した村上医家史料館があります。村上家は江戸時代に中津藩の典医を勤めた家柄。7代目村上玄水は文政2(1819)年に人体解剖を行い、『解臓記』『解剖図説』を著しました。


村上医家史料館


福沢諭吉旧居

村上医家史料館の前には、中津にゆかりの偉人の功績を記した「中津の先哲」という立て札が並んでいます。同様の立て札は城下町の至るところにあり、中津が多くの偉人を輩出した土地であることを観光客にアピールしていますが、「中津の先哲」の最たる存在が福沢諭吉でしょう。

諭吉は大坂にあった中津藩蔵屋敷で生まれ、父の死後、数え3歳のとき母や兄弟とともに中津に移り住みました。現在公開されている旧居は、17歳ごろに母の実家(橋本家)を購入して居住したものです。旧居周辺では、塀や軒下に諭吉の名言を掲げる家を多く見かけました。


諭吉旧居周辺の町並み


路地裏に3階建ての旅館があった


赤壁の合元寺は中津寺町のシンボル


中津寺町の南にあった竹塀の家


【住所】大分県中津市(大字なし)(地図
【公開施設】南部まちなみ交流館(旧宇野屋住宅)、福沢諭吉旧居、村上医家史料館、大江医家史料館
【参考資料】
『歴史散歩(44)大分県の歴史散歩』山川出版社、2008年

2015年5月5日撮


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