御領
ごりょう

島経済の中心地

御領は天草下島の北東海岸にある町。町家と農家が渾然一体となった在町で、近年、古い町並みとして観光協会がPRを始めたところです。

【1】御領には、戦国時代に天草下島の北部を治めた志岐氏が城を構えました。この高台が城跡で、現在はお寺になっています。
【2】城跡から続く高台に、江戸時代の豪商・石本家の屋敷が建っています。
【3】立派な石垣が石本家の家柄を示しています。当地にはすぐれた石工集団がいたそうで、このほか町のあちこちで石垣を見かけました。

御領には戦国時代、志岐氏の支城が置かれ、天草の北辺を守る拠点となっていました。志岐氏は富岡城(現・苓北町)を居城として天草下島の北部を支配し、天草五人衆にも数えられた豪族。16代目の鎮経(しげつね)はキリシタン大名でもあり、彼の信仰がもとで天草にキリスト教が広まったといわれています。
御領城跡(現・芳証寺)

芳証寺に残る御領城の古井戸

御領城の跡地は現在、芳証寺の境内になっていて、そこには戦国時代にさかのぼるとされる井戸や掘割が残っています。
御領の町並みは城跡の高台を取り巻くようにカーブを描いて延びていますが、町場の歴史はそれほど古くなく、宝暦・明和年間(1751〜72)の埋め立てでできたと考えられています。


芳証寺下の町並み。トタン被覆の茅葺き民家が散見された

芳証寺下の町並み。このあたりには2階家が多い
この町並みではトタンで覆われた茅葺きの家が4軒見られました。いずれも寄棟造りの小ぶりな家で、周囲に下屋をまわしています。この中の1軒は下屋の外壁に板を張っているのが珍しいと思いました。


石本家の主屋。あまり古くなさそうだが……
御領が繁栄したのは明和年間以降で、当地の飛躍には豪商の石本家が大きく関わっていました。石本家は古くから御領村に住み、薩摩藩、柳川藩、人吉藩など財政難の諸藩に融資を行う、いわゆる大名貸しを行っていました。
石本家の屋敷跡はいまも御領に残っています。芳証寺(御領城跡)の西に続く高台にあり、隙間なく組み上げられた石塀が目印。石塀は御領石工と呼ばれる石工集団の手によるものです。
石本家の石塀

石本家の納屋
石本家は武家だけでなく庶民にも目を向けていました。とくに天保年間(1830〜44)に活躍した5代目の平兵衛は貧民救済に努め、飢饉が起こると私財を投げ打って救援米を配給しました。弘化4(1847)年、天草では「第二の島原の乱」といわれる弘化一揆が起こり、多くの豪商が打ちこわしに遭う中、石本家が襲撃されなかったのはこのためだといわれています。
現在、御領ではまちづくり振興会が古い町並みのPRを行っています。天草というと戦国時代から江戸時代初期までのキリシタンの歴史が注目されがちですが、江戸中期以降の歴史豊かなこの町並みがもっと知られればいいなぁ、と思いながら散策しました。


【住所】熊本県天草市五和町御領(地図
【公開施設】石本家屋敷
【参考資料】
『熊本の町並み』財団法人熊本開発研究センター、1982年
『角川日本地名大辞典(43)熊本県』角川書店、1987年
御領まちづくり振興会

2015年8月16日撮


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