横瀬
よこせ

長崎の原型

西彼杵(にしそのぎ)半島の突端にある横瀬には戦国時代、ポルトガル人の貿易港が開かれました。その町づくりは、やがて長崎にも受け継がれました。

【1】横瀬浦。かつてここにポルトガル船が寄港しました。
【2】湾に面して、ひな壇状に家を建てます。このあたりは上町・下町と呼ばれた地区で、商人やキリスト教徒が暮らしていました。
【3】上町・下町の西には思案橋が架かり、その先に丸山遊郭がありました。横瀬浦はわずか1年で役目を終えましたが、「上町」「思案橋」「丸山」などの地名は、その後ポルトガルの寄港地となった長崎へと受け継がれました。

戦国期の南蛮貿易は天文19(1550)年、平戸港で始まりました。こののち平戸島や周辺の生月(いきつき)島ではキリスト教信者が爆発的に増えましたが、しだいに仏教徒との軋轢が顕在化。永禄4(1561)年には生糸の価格をめぐってポルトガル船員と日本商人が口論となり、死傷者を出してしまいます(宮ノ前事件)。
事件後、ポルトガル船は平戸をあとにし、新たな貿易港として横瀬に目をつけました。

入り江の護岸には石段が設けられている

横瀬を領していた大村純忠は永禄5年、ポルトガル商人と開港協定を締結。こうして横瀬は平戸に代わる国際貿易港となりました。同時に教会が建設され、キリスト教の布教拠点にもなったのです。翌年には純忠が洗礼を受けて日本初のキリシタン大名となり、いっそうの繁栄が約束されたかに思われましたが、純忠に敵対する勢力の襲撃を受け、横瀬は焼き討ちにあってしまいます。
再び港を失った南蛮船は、平戸、福田(西彼杵)、口之津(島原)を流転。最後には長崎に落ち着き、やがて長崎が日本を代表する貿易港になっていきました。

横瀬の黄金時代はわずか1年間。しかも焼き討ちにあったため、往時の面影はまったく残されていません。しかし自然の地形を生かして上町と下町から構成される町づくりや、丸山や面影橋などの地名は、長崎の港湾整備にも継承されたといわれています。歴史の片隅に忘れ去られたかに思われた横瀬ですが、その町並みはいまも長崎の中で生き続けているのです。
日本史の1ページを記したとは思えないほど、のどかな町並み

上町には古い民家が残る


上町の古民家


【住所】長崎県西海市西海町横瀬郷(地図
【公開施設】なし
【参考資料】
『旅する長崎学(6)キリシタン文化別冊総集編』長崎文献社、2007年

2013年5月1日撮


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