鉄砲町
てっぽうちょう
石垣に響く水音
島原城の西側に、長方形の街区が連続する区画があります。江戸時代、歩兵が集住したエリアで、その町割は藩政期の町の起こりをいまに伝えています。 |
【1】道路中央の水路は、2キロ北の杉山権現熊野神社の湧き水から引かれたもの。とても澄んだ水で、生活用水として使われました。 |
鉄砲町(鉄砲丁)の名は島原城築城の折、鉄砲を主力とする歩兵の居住地として整備されたことに由来します。町は7筋の道で構成され、このうち最も古いのが、東から順に「下ノ丁(したんちょう)」「中ノ丁」「古丁」という3本の道。成立は島原城が完成した寛永元(1624)年ごろとされています。 | 鉄砲町に通じる道筋に時鐘楼が建つ |
それぞれの「丁」を結ぶ東西方向の路地 |
寛文9(1669)年に松平忠房が入封すると、古丁のさらに西に「下新(しもじん)丁」と「上新(うわじん)丁」が、また下ノ丁の南に「新建(しんだち)」が、それぞれ整備されました。幕末には帰国する江戸詰めの藩士のため、下ノ丁の東に「江戸丁」が完成。これにより現在見られる町並みができあがりました。 |
鉄砲町の各道筋には、飲用水や生活用水を提供する水路が引かれていました。下ノ丁にはこの水路が現存し、しかも山本邸、篠塚邸、島田邸という3棟の武家屋敷も残され、島原観光の拠点となっています。武家屋敷はいずれも茅葺きでL字平面の曲がり家となっています。 | 下ノ丁の町並み |
篠塚邸。平面はL字型 |
山本邸。食い違い間取りになっている |
中ノ丁 |
現在、下ノ丁以外の道筋では水路は暗渠となったり、道の端に付け替えられています。しかし屋敷の石垣や生垣、門などは現存し、落ち着いた町並みが広範囲にわたって残されていました。 |
下新丁 |
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