志多留
したる
武家町のような農村
対馬島の北西部にある志多留は、道の両側に石垣が連なる、まるで武家屋敷町のような景観が見事です。その石垣の道を歩いていくと、突如目の前が開け、小屋が群れなす光景にぶつかります。 |
【1】志多留の石垣は強風対策としてつくられました。門などの開口部も、必要最低限のスペースしか確保していません。 |
対馬島でも有数の「古い町並み」が見られるのが志多留です。現在の町並みは明治5(1872)年の大火でほぼ全焼したあとに再建されたもの。当時はどの家も茅葺きだったため火のまわりが早く、集落の再建時に屋根は瓦葺きとされました。 | 石垣が続く志多留の町並み |
志多留の民家は、様式的には「士族住宅の影響を受け、格式が高い」と、『日本の美術(406) 離島の建築』に書かれています。ですが、なぜ士族に影響されたのかは説明がなく、分かりません。 このとき再建された家はほとんどが間口6間、奥行4間で、対馬島の農家としては比較的大型です。 |
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玄関に貫を入れるなど、細部まで凝った大型の家が多い。民家はすべて平屋 |
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志多留では強風対策として屋敷に石垣をめぐらせ、出入口の開口部もできるだけ小さくします。門を構える家が多いのですが、そうした門も幅は1間ほどで、さりげなく収められています。 |
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志多留川に面して長屋門を構えた家 |
そんな中で目についたのが、志多留川に面して長屋門を構えたお宅。この一画は屋敷地を道路より低くしているため、いらかの波が折り重なり、志多留でもとくに見事な景観が残されています。 |
武家町風の石垣の町を歩いていくと、突如視界が開け、小屋が並ぶ広場に出ます。対馬では集落内に小屋群を設けるのが一般的で、ここ志多留もその例に漏れず、見事な小屋群が形成されていました。 |
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島南部の椎根などに比べると、小屋は小さめ |
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