厳原
いずはら
江戸の代役務めた町並み
厳原は文明18(1486)年、宗氏の館がこの地へ移転したことで、城下町としての歩みを始めました。いまなお対馬島で最大の町で、新設合併された対馬市の役場もここにあります。市街地には石垣が多く残り、武家町の面影をとどめています。 |
【1】厳原の北部、宮谷・中村地区に古い武家屋敷跡が残ります。石垣と門が連なる小道は風情があります。 |
豊臣秀吉の朝鮮侵略以来、断絶していた国交回復のため行われたのが、朝鮮通信使の派遣です。通信使は徳川幕府の要請を受け、朝鮮国王の国書を届けるため、はるばる江戸まで通いました。その数、205年間で12回。 使節にかかる費用は大半が江戸幕府が負担しましたが、江戸中期になると幕府の財政が悪化し、文化8年の第12回をもって終了しました。この最後の通信使が国書を交わした場所が、対馬の厳原でした。当時の幕府は、江戸までの交通費をまかなえなかったのです。 |
厳原の町並み |
大岩を取り込んだ石垣(中村) |
対馬で行われた国書の交換は、易地聘礼といわれます。土地を易(か)えて行われた聘礼(諸侯が大夫に他国を訪問させる儀式)という意味です。 厳原の見事な石垣は、この易地聘礼にあわせて整備されたものです。何しろ厳原が江戸に変わって日本の顔になったわけですから、町づくりにも相当な力を入れたのでしょう。 |
中村の旧武家屋敷町 |
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武家屋敷を囲んだ石垣は厳原市街地に広く分布しています。とくに見事なのが、市街地北部の中村地区と宮谷地区。石垣が連続し、各家には古い門も現存しています。敷地内の民家は新しく建て直されたものがほとんどですが、宮谷には木造民家も現存しています。 |
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宮谷の旧武家屋敷 |
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宮谷の旧氏江家長屋門 |
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江戸時代の宮谷では防火壁もつくられました。一般的な石塀の2倍はあろうかという高塀で、火災の延焼を防ぐため、町内各地に設けられていました。しかし現存する防火壁は、右写真の1カ所だけです。 | 宮谷の防火壁。嘉永二年(1849年)の銘がある |