東山手
ひがしやまて

ビルに囲まれた領事館の丘

幕末の開港後、長崎の山手地区には外国人の居留地が整備されました。主に住宅地として開発された南山手に対し、東山手には各国の領事館がつくられ、「領事館の丘」と呼ばれました。

【1】ビルに埋もれて、同形の洋館が並んでいます。明治30年前後に建てられた2階建ての長屋で、海側に開放的なバルコニーを設けています。
【2】黄色い屋根は孔子廟。東山手の洋館には、唐草模様など中国風の装飾が施されていることから、中国人が整備に一役買ったと考えられています。
【3】木陰に見え隠れする東山手12番館。ロシア領事館、アメリカ領事館などとして使われました。
【4】赤屋根は活水女子大学。領事館の広大な敷地は、後代に学校用地になりました。
【5】海星学園中央館。現代建築の旗手、吉阪隆正の設計で1957(昭和32)年に建てられました。写真右端の青屋根の建物まで海星学園の敷地が広がっています。

東山手は観光名所のオランダ坂を中心とするエリア。開港直後に各国の領事館が置かれたことから「領事館の丘」と呼ばれました。大正末から昭和初期にかけて、国際関係の悪化によって領事館が閉鎖されると、跡地はミッション系学校用地などに転用されました。現在の東山手には、保存・修復された旧ロシア領事館(東山手12番館)や戦前建築の活水女子大学などが建ち、町の歴史を語っています。
1926(大正15)年に建てられた活水女子大学

東山手の2階建て洋館群

東山手の町並みでおそらく最も特徴的なのが、南側の一角を占める木造洋風集合住宅でしょう。寄棟造り、2階建ての二世帯住宅が7棟密集しています。こうした町並みは全国でも長崎の東山手でしか見ることができません。

集合住宅には擬宝珠や唐草模様など、中国風の装飾が施されています。住宅群のすぐ西には孔子廟があることから、この近くには中国人が多く暮らしたと考えられ、あるいは東山手の開発にも彼らが大きく関与した可能性があります。


瓦屋根、板壁、煙突。見事な和洋折衷建築


装飾は擬宝珠や唐草模様など中国風

東山手12番館

この集合住宅から北へ300メートルほどの活水女子大学周辺にも洋館が連なっていて、東山手に現存する唯一の領事館建築、東山手12番館もそこにあります。明治元(1868)年に建てられた12番館は1階にベランダをそなえた大がかりな建物。ベランダの庇を支える持ち送りは円弧を組み合わせた変わったデザインで、長崎では珍しいそうです。

12番館の周辺にも木造2階建ての数世帯住宅が残されています。東山手はいまや乱立するビル群に埋もれていますが、整備された当初は、珍しい2階家が建ち並ぶ最先端の高層都市だったのでしょう。


東山手13番館


初期の住宅が並ぶが、どれもかなり改装されている

レンガ塀と石畳の道

V字型の側溝
東山手は領事館をはじめとする公共建築が多かったため、道路整備も入念になされました。石畳の舗装道や独特のV字型の側溝が、往時の町並みを伝えています。この道の傾斜部が、通称オランダ坂。しばしば「がっかり名所」といわれますが、150年前の石畳道が残されていることに感動できない人もいるのですね。

頂部を切妻型に仕上げたレンガ塀

オランダ坂とレンガ造りのH家住宅


【住所】長崎県長崎市東山手町(地図
【公開施設】東山手洋風住宅群(町並み保存センター、古写真資料館、東山手地球館、埋蔵資料館)、東山手12番館
【参考資料】
『東山手の洋館 伝統的建造物群保存地区保存対策事業報告書』長崎市教育委員会、1977年
『未来へ続く歴史のまちなみ』全国伝統的建造物群保存地区協議会編、ぎょうせい、1999年

2009年12月30日撮


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