呼子
よぶこ
路地裏の大壁造り
国境の港だった呼子の歴史は古く、奈良時代以前から交通の要衝として重要な位置にありました。鎌倉時代には松浦水軍が本拠地を置き、江戸時代になると捕鯨拠点として発展。路地裏に網元の家が建ち並びました。 |
【1】こちらの家並みの後ろに海があります。海側の家には網元が多く、ここに並ぶ2軒のツシ2階建て民家も、かつては網元でした。外観はしっくいで塗りごめた大壁造りです。 |
呼子の現在の町並みは江戸時代中期、捕鯨集団・鯨組の拠点港になったころに成立しました。当地の捕鯨を牽引したのが中尾家です。宝永・正徳年間(1704〜16年)に創業し、2、3代目のころに巨万の富を築いた家で、町内の社寺を再興するなど町の整備にも尽力しました。 | 旧中尾家住宅 |
大正時代に始まった呼子朝市 |
中尾家の屋敷は町並みの南側に現存しています。表通り沿いの主屋は南北2棟から構成されていますが、このうち北棟は18世紀前半の建築とされる、呼子でも屈指の古民家です。 |
呼子の町並みは微妙に屈曲するメインストリートに沿って展開します。道幅は北に行くに連れどんどん狭くなり、この道沿いに幕末以降の民家が並んでいます。呼子の民家は商家風なのですが、海側の家はしっくいを塗りごめて閉鎖的、山側の家は2階に窓を入れて開放的なつくりとするものが多いようです。 | 窓枠に特徴がある明治中期の前谷薬局 |
木部を現したまましっくいを塗る |
大壁造りの家の中には、旧中尾家住宅のように、柱や梁を現したまましっくいを塗るものも見られ、独特の町並みを構成しています。 |
また、九州北部の商家は妻入りとするものが多いのですが、呼子はほとんどの家が切妻平入りです。しかし古くは呼子の家は寄棟妻入り、茅葺きだったと考えられています。家の向きが変わったのは、豊臣秀吉の朝鮮侵略時にできた名護屋城下の町並みや、その流れをくむ博多などの町並み(いずれも切妻平入り、板葺きと思われる)に似せたためで、少しずつ変化が生じたと考えられています。 | 細路地に平入り商家が並ぶ。手前は江戸後期の谷口商店 |
間口の狭い平入り商家が多い |
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漁家が密集する先方町 |
これらの商家群を抜けると道はますます狭くなり、最後は細路地が入り組む先方町(さきかたまち)や海士町(あままち)に行き着きます。先方町の高台にある八幡神社は15世紀後期の創建で、その周辺に漁民が集住したのが呼子の始まりとされています。その後、町が拡大する中で職業別に住み分けがなされましたが、現在でもこの付近には漁師が多く暮らしています。 |
海士町。突き当たりの龍昌院には鯨の供養塔がある |