唐津城内
からつじょうない
城まで延びる石垣の道
かつて唐津城の二の丸、三の丸があった城内は、藩庁や武家屋敷の連なる地域でした。道沿いに延びる石垣や生垣が、往時の城下町の名残を留めています。 |
【1】かつての二の丸付近。この石垣の内側に藩庁がありました。 |
唐津藩の初代藩主、寺沢広高がこの地に封ぜられたのは、豊臣秀吉の家臣だった文禄4(1595)年のこと。ときあたかも朝鮮侵略(文禄・慶長の役/壬辰・丁酉の倭乱)の真っ最中で、唐津から北西へ15キロほどの名護屋城が出兵の拠点となっていました。しかし秀吉が没すると(1598年)、派兵はただちに中止されます。名護屋城は廃止され、その古材を再利用してつくられたのが唐津城でした。 | |
松浦川河口と唐津城天守 |
唐津城は松浦川河口の満島山(まんとうざん)に位置します。着工は慶長7(1602)年、完成は慶長13年。同時期に城下町も整備されました。城は満島山に本丸を構え、その西に二の丸と三の丸が続きました。現在、二の丸と三の丸を囲んだ石垣が残り、「石垣の道」という名の散策コースとなっています。 |
しかし唐津城内では石垣や堀などの土木構造物を除き、建築物はほとんど現存していません。二の丸の藩庁跡は現在、学校になっていますし、三の丸も住宅地に変貌しています。それでも丹念に路地裏を歩けば、立派な石垣や土塀を見ることができます。 | 二の丸の石垣 |
家老・堀家の門。水野旅館の門として利用されている |
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埋門小路の土塀 |
石垣の道は二の丸から三の丸へと続いています。三の丸には海岸へ出るための埋門(うずめもん)があり、この門から内陸側に向かって延びる道は埋門小路と呼ばれました。埋門小路はいまも城下町の雰囲気が色濃く、両側に生垣や土塀が続きます。しかし敷地内は駐車場になっていたり、近代的なビルが建っていたりと、やはり歴史的な建築物は残されていませんでした。 |
埋門小路の町並み |
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唐津城内で随一の歴史的建造物が、石垣の道の西にある旧高取家住宅です。建築は1905(明治38)年。明治・大正時代に杵島(きしま)炭鉱などを所有し、一時は「高取王国」と呼ばれるほどの富を築いた高取家の豪邸です。 | 石垣の中に旧高取家住宅が建つ |