下田
しもだ

家を飾るまだら模様

200年続いた鎖国体制を解き、初めてアメリカに向け開かれた港が下田です。ここを訪れたペリー艦隊の目をひいたのが、家に付けられた「おもしろいまだら模様」。すなわち、なまこ壁です。

【1】海風が吹き寄せる下田は、つねに火災の危険がありました。下田の建物は防火のため、壁全面がなまこ壁で仕上げられました。
【2】鬼瓦の台座である柄振台(エブリ台)の意匠も下田の特徴。火除けの波模様や、吉祥を表す鶴亀が好んで描かれます。
【3】なまこ壁とともに下田の町並みを特徴づけるのが伊豆石。加工しやすく、住宅の1階部分や蔵に積極的に採用されました。

江戸時代の日本は、清、朝鮮、琉球、アイヌ、オランダの5カ国・民族とのみ交易を行い、それ以外の国々に対しては鎖国政策を取っていました。しかし列強諸国の相次ぐ開国要請により、嘉永7(1854)年にアメリカとの間で日米和親条約(神奈川条約)を締結し、南伊豆の下田を即時開港することとなりました。
下田が選ばれたのは、江戸に近い天然の良港だったためといわれています。事実この地は古くから交通の要衝として、また、風待ちの港として重視されてきました。


日米和親条約の細則「下田条約」が締結された了仙寺


なまこ壁の蔵(下田日待)

下田の町並みの特徴がなまこ壁です。条約締結後に入港したペリー艦隊も注目し、遠征記にこう記しています。
〈店舗や住居の建物は粗末なもので…略…大部分は竹か木摺り(ラス)で骨組みをつくり、その上に粘り気のある泥を塗っている。この粘土が乾くとさらにしっくいで上塗りをする。このしっくいは色付けされるか、またはさらして黒くする。そのあと建物の表面に対角線のくり形を施し、それを白く塗って黒い下地との対照を引き立たせ、家屋におもしろいまだら模様をつける。〉

実はこの記述は、一般的ななまこ壁の工法とは異なります。なまこ壁とは、壁面に平瓦を貼り、継ぎ目にしっくいを塗って仕上げるものですが、ペリー艦隊の記述では黒地のしっくい壁の上に対角線に模様を入れると書かれています。当時はこうしたなまこ壁もあったのか、それとも彼らが聞き取りの過程で勘違いをしたのでしょうか。


なまこ壁の民家


1階部分を伊豆石積みとした家

下田の町並みでなまこ壁とともに印象的なのが伊豆石(伊豆軟石)です。太古の火山灰や軽石が圧縮されてできた石で、採掘が始まった時期については詳らかではありませんが、寛政年間(1789〜1801年)には採掘されていたという記録があります。とくに幕末から明治にかけて、近代化をまい進する江戸・東京の建築資材として重宝されました。

大正以降になると、陸上交通の発達により栃木県産の大谷石が使われるようになり、また、コンクリートの普及で石材の需要が減ったこともあって、伊豆の石材産業は衰退しました。
しかしその後も地元・伊豆では建材や風呂石などとして使われ続け、いまでも伊豆石を用いた露天風呂を売りにしている観光施設は散見されます。伊豆石の特徴は軟らかく、加工しやすいこと。反面、耐久性に不安もありますが、下田では石どうしをかすがいで固定しています。軟らかい伊豆石だからこそなせる技ですね。


かすがいで固定された伊豆石の壁(ハリスの館)

邪宗門。安政以降の築と推定

ちなみに下田における伊豆石建築では、喫茶店・邪宗門(左写真)が平屋建て(現密にいえばツシ2階)、居酒屋・ハリスの館が2階建ての、それぞれ典型例とされています。いずれも安政年間(1854〜60年)にさかのぼる古い建物ですが、いまも飲食店として営業しているのは頼もしい限り。側壁を見ると、しっかりとかすがいで固定されていました。


ハリスの館。1857(安政4)年築


伊豆石づくりの蔵と塀

下田を訪れたペリー艦隊は町並みにも感嘆し、次のような記録を残しています。
〈下田の町はこぢんまりと建設されていて、規則正しい町並みになっている。街路は直角に交差し…略…街路の幅は20フィートほどで、砕石が敷かれたり、舗装されたりしているところもある。下田は文明の進んだ町であることが見てとれ、町を建設した人々の衛生や健康面への配慮は、わが合衆国が誇りとする進歩をはるかに上回っていた。排水溝だけでなく下水道もあり、汚水や汚物はじかに海に流すか、町中を流れる小川に流し込んでいる。〉
残念ながら彼らが賛美した町並みは、1年もたたないうちに壊滅しました。原因は安政地震による津波です。


平滑(ひらなめ)川沿いは観光客に人気の散策路


津波直後の安政元(1854)年築と伝わる平野屋

地震の直後、艦隊は合衆国全権アダムス中佐を運ぶため下田を再訪しました。そのときの記録にこうあります。
〈アダムス中佐は下田に到着すると、この土地の様相が大きく、かつ悲しく変化しているのを知った。…略…低地にある家屋や公共建造物はすべて壊滅した。高所にある2、3の寺院と私邸が難を逃れただけで、かつて下田にあった建物で残っているのはわずか16軒に過ぎない。〉
しかし、このとき早くも再建工事は始まっていました。
〈日本人たちは忙しく片付けと再建にとりかかっていた。連日あらゆる地方から石材、木材、屋根葺き材、瓦、石灰などが運び込まれ、ポーハタン号が出発するまでには約300軒の家がほとんど、または完全にできあがっていた。〉
こうして下田は再び、あの「おもしろいまだら模様」の町並みとなったのです。

津波直後の安政元(1854)年築と伝わる平野屋

カフェ土佐屋のエブリ台

草画房の渦巻き模様の懸魚(げぎょ)


【住所】静岡県下田市一丁目、二丁目、三丁目
【公開施設】旧澤村邸
【参考資料】
『下田市旧下田町伝統的建造物群保存対策調査報告書』下田市教育委員会、2013年
『ペリー提督日本遠征記(下)』M・C・ペリー、F・L・ホークス編纂、宮崎壽子監訳、角川文庫、2014年

2014年5月31日撮影


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