伊久美二俣
いくみふたまた

静岡茶の歴史ここに始まる

現在の一般的な日本茶である煎茶の製造は、江戸時代中ごろ、宇治の茶師によって始められました。それから100年後、茶所として名を馳せていた静岡でも宇治の茶師を招いて煎茶製造を開始します。その第一歩が刻まれたのがここ、伊久美二俣。

【1】静岡といえば茶畑。
【2】主屋を囲むように付属屋が並びます。石垣も美しく、まるで城塞のようです。
【3】これが茶部屋です。静岡の茶農家は1軒ごとに茶部屋を建てました。この中で手もみ製茶が行われていました。

2005年9月、静岡の茶文化をめぐる旅を行ったわたしは、島田市のお茶の郷博物館にて、「静岡県内に伝統的な茶農家が残る集落はないのか」と訪ねました。答えは「はっきり分かりませんが、おそらくないと思います」という、そっけないものでした。
それ以来、わたしは「すでに伝統的な茶農家の風景は失われた」と思い込んでいましたが、ふとした拍子に探してみるとあるわあるわ。次々に伝統的な茶農家や集落が見つかりました。

中でもここ伊久美の二俣は、江戸時代後期に宇治の茶師が「手もみ製茶」を教習した集落。歴史的にきわめて重要な史跡クラスの集落であり、しかも江戸時代のものを含む7、8軒ほどの茶農家建築が現存しています。

手もみ製茶の歴史は江戸時代中期、宇治の茶師・永谷宗円によって始められました。
それまでの日本人は、乾燥した茶葉を粉末にし、お湯に溶いて飲む「抹茶」や、新芽と古葉をいっしょくたにしてお茶を味わっていました。
ところが宗円は、新芽のみを摘み取り、一度蒸した茶葉を暖めた台上でもむという、新たな製茶方法を開発したのです。ときは元文3(1738)年。これが、現在わたしたちが味わう、いわゆる「煎茶」のルーツです。


二俣の茶農家、H家住宅

旧西野平四郎家住宅

それからおよそ90年後。
当時すでに茶所として知られていた静岡に、宗円が開発した手もみ製茶が導入されるときがきました。きっかけとなったのが文政7(1824)年に起きた訴訟「文政の茶一件」。江戸の茶問屋が茶の納入業者を特定していたため、多くの茶農家が販路自由化を求めて訴えた事件です。結果、証拠不十分で敗訴しましたが、これを機に江戸の茶問屋は解体され、お茶の自由化時代が到来しました。

茶一件の被告の一人、西野平四郎は、新時代にそなえ上質なお茶の製造が急務と確信。宇治から茶師を招いて手もみ製茶を習いました。平四郎は製茶を行うための「茶部屋」を建て、そこを伝習所とすることで技術の普及にも努めました。
平四郎が手もみ製茶を行った集落こそ伊久美二俣です。ここは静岡が日本最大の茶産地になるきっかけとなった集落ということもできるでしょう。
同時に茶部屋建築も平四郎を習って次々に建てられました。モデルになった平四郎の家はいまも残っています。静岡の茶部屋の原点がここにあります。

旧西野平四郎家の茶部屋。開口部は無双窓
ところで、伊久美の茶農家にはツミコ部屋という付属屋があり、たいてい茶部屋に隣り合って建てられています。茶農家が雇ったツミコという女性労働者にあてられた部屋なのですが、伊久美独特のものなのか、各地で広くつくられたのかは分かりません。
中には茶部屋とツミコ部屋を一体化させた建物もあり、大きなものでは長さ20メートルほどになります。前庭を挟んで主屋と向き合っているため、遠めには長屋門にも見えます。

F家住宅。手前がツミコ部屋、奥が茶部屋

O家住宅。長屋状の建物の左が茶部屋、右がツミコ部屋


【住所】静岡県島田市伊久美
【公開施設】なし
【参考資料】
日本煎茶元祖 永谷宗園茶店ホームページ
Green Tea Tourism
卒業研究「茶農家建築とその空間構成について 静岡県島田市伊久美地区二俣を事例として」山田晃靖著

2014年6月1日撮


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