鵜沼
うぬま

白木の脇本陣

中山道52番目の宿場町だった鵜沼は、明治期の濃尾地震によって壊滅的な打撃を受け、1軒の旅籠を残して全壊しました。現在の町並みはその後再建された明治・大正期のもの。そこへ2010年、脇本陣が新築なりました。

【1】江戸時代に建てられた旅籠・茗荷屋。1891(明治24)年の濃尾地震で崩れ落ちなかった唯一の建物です。
【2】震災後、旧中山道に再び商家が建てられました。茗荷屋に続く梅田家や安田家など、鵜沼宿には質の高い明治建築が軒を連ねます。
【3】そんなシックな町並みに突如表れたのが、この白木の建築。濃尾地震による崩壊から119年後の2010年、2億5000万円をかけて復活した脇本陣です。

鵜沼宿には明治期の町並みが残り、各務原市は歴史的風致の維持・活用による町づくりを行っています。そんな町に突如現れ、いまや町一番の人気者になっているのが脇本陣。2010年、昔のままに木造で再建されたのです。
最近はお城の天守閣を木造で「本格再建」するケースが増えていますが、町並みの一建築を本格再建するという話は、鵜沼宿のほかに聞いたことがありません。


菊川酒造(右)の蔵と好対照な、築わずか5年の脇本陣

内部もしっかりと再現されている。これは上段の間の書院
脇本陣の再建計画は、各務原市による鵜沼宿再生事業の中で浮上しました。鵜沼では濃尾地震後、古い地割を分割して町並みが再建されましたが、脇本陣跡だけは一人の地主がもち続けたため、用地取得が簡単で、それが決め手になったそうです。また、江戸時代の「鵜沼宿家並絵図」に詳細な平面図が掲載されていて、伝統的な復原が可能だったことも、事業を後押ししました。
とはいえ、絵図に残っていたのは平面図だけですから、立面や内部装飾はたぶんに想像により補っています。たとえば、外見を特徴づけるうだつについても、実在したという確証はありません。
復原を監修した神奈川大学の西和夫名誉教授(建築史)が「あって欲しい」と発言し、実現したのだとか。ちなみに、よくよく見るとうだつの先端が二重になっていますが、これはお隣、太田宿の脇本陣林家の真似っこです。

うだつの形状は太田宿の脇本陣林家と同じだ

上段の間の宿泊者専用のトイレ。なんと畳敷き
事業費は実に2億5000万円。このうち半分を各務原市が、半分を国が負担しました。
また、事業費の約半分が用地取得や既存建築の解体工事費で、実際の建築費は1億2500万円ほどだったそうです。
 
脇本陣の再建とともに、空き家となっていた旧武藤家住宅の整備も行われました。この家は現在、中山道鵜沼宿町屋館として一般公開されています。
旧武藤家も濃尾地震で倒壊し、現在の建物は明治時代末に再建されたもの。1964(昭和39)年まで郵便局として使われていました。

中山道鵜沼宿町屋館(旧武藤家)

鵜沼宿で濃尾地震を生き延びた唯一の建築、茗荷屋
脇本陣のはす向かいには古い建物が4軒並び、昔の街道集落の景観をとどめています。そのうちの1軒である旧茗荷屋は、鵜沼宿で唯一、濃尾地震を生き延びた建物です。

右手前から安田家、梅田家、茗荷屋。奥の塀の家が坂井家


【住所】岐阜県各務原市鵜沼西町1丁目
【公開施設】中山道鵜沼宿町屋館、中山道鵜沼宿脇本陣
【参考資料】
「かかみがはら 歴史の道中山道を歩こう 散策マップ」

2014年2月11日撮影


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