高山下町
たかやましもまち

「最もすぐれた民家」

ガイドブックで「古い町並み」と紹介される高山上町は観光客であふれていますが、安川通りの北側の下町は土産物屋やカフェも少なく落ち着いたたたずまい。ここには飛騨の匠の手による重厚な町家が軒を連ね、訪れる人を静かに迎えてくれます。

【1】高山は京都をモデルにつくられた小京都です。町家の建て方も京都にならい、オモテに主屋を建て、奥に蔵を並べました。
【2】街区を横から見ると、主屋から蔵に至る建築配置がよく分かります。これらの蔵は大火時に防火壁として機能しました。現に高山は1875(明治8)年、大火に襲われ、焼失した家屋は1032戸におよびましたが、焼失土蔵はわずか44棟でした。
【3】ところでこのお宅、重要文化財に指定されている日下部家住宅です。建築史家の伊藤ていじは著書で「わが国で最もすぐれた民家のひとつに入れることができるだろう」と絶賛しています。

高山市には2つの重要伝統的建造物群保存地区があります。先に選定されたのが、「古い町並み」と紹介されることの多い上町(三町)で、1979(昭和54)年のことでした。その北にある下町(下二之町・大新町〈おおじんまち〉)は、それから25年をへた2004年に選定されました。


大正・昭和期の建築も見られる下二之町の町並み

間口の広い商家も多い
下町には江戸時代から昭和戦前までの各時代の民家が残されています。江戸・明治の古い民家からなる上町とはおもむきを異にし、ガラス戸をはめた家や建ちの高い家など、変化に富んだ町並みとなっています。

高山といえば日本の三大曳山祭に数えられる高山祭も有名ですが、日枝神社の氏子である上町は春の天王祭、櫻山八幡宮の氏子である下町は秋の八幡祭と、開催時期が異なります。町家の年代に差があることに加え、こうした社会的な背景の違いによって、上町と下町はそれぞれ別個の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。


櫻山八幡宮門前の町並み
 
下町の北部、大新町には2軒の重要文化財の民家が並んでいます。
南側の日下部家は江戸時代の両替商。現在の建物は1875(明治8)年の大火から4年後に完成しました。
北の吉島家は造り酒屋で、やはり大火後に再建されましたが、1905(明治38)年に再度焼失し、いま見る建物はその後に建て直されたものです。

大新町の日下部家住宅(奥)と吉島家住宅

日下部家の台所。天窓から差し込む光が梁組みに陰影を生む
伊藤ていじ著『民家は生きてきた』に、こう書かれています。
〈(日下部家の)壮大な梁の組み方には、(棟梁)川尻治助のなみなみならぬ関心と意識がみられる。単に構造的な必要さから考えるならば、あんなに太いウシ梁も、数多い梁も、規則正しい小屋束も組む必要はない。たしかに彼は、『みせるために』よぶんの木を丹念に組み合わせている。〉
日下部家のハイライトが梁組であることは間違いありません。玄関から土間に入ると、だれもが息をのむことでしょう。梁は二重にも三重にも積み重なり、圧倒的な存在感を示しています。
日下部家から約30年後に建てられた吉島家は、日下部家とはだいぶ違った印象を受けます。土間には同じく見事な梁組みがあらわになっていますが、より繊細な感じがするのです。
吉島家の梁組

吉島家の座敷
『民家は生きてきた』から引きます。
〈吉島家住宅には、日下部家住宅にみられるような、激しい見栄の精神はもうない。(略)入口から『ろじ』(土間)へ入った時、明るくて春慶塗をみるような雰囲気はあるが、人々を威圧するような梁組の壮大さを誇るようなところはない。〉


【住所】岐阜県高山市下二之町、大新町
【公開施設】日下部民藝館(日下部家住宅)、吉島家住宅、宮地屋
【参考資料】
『高山旧城下町の町並み 下二之町・大新町地区伝統的建造物群保存対策調査報告』高山市教育委員会、2003年
『民家は生きてきた』伊藤ていじ著、鹿島出版会、1963年(2013年再版)

2014年2月9日撮影


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