高山上町
たかやまかみまち

不文律が守ってきた町並み

飛騨高山は古い町並みとして、全国でも五指に入るものでしょう。雪道に浮かび上がる漆黒の町並みには、日本建築の美が集約されています。

【1】高山では江戸時代から隣家と軒の高さを揃え、立面も揃えるという不文律があり、そうした町家が連なる状態を「町並み」と呼んでいました。2階屋根の高さはまちまちですが、いまも1階の軒はみごとな一直線を描いています。
【2】高山の町家には雪国ならではの構造を見ることができます。たとえば緩傾斜の屋根は、雪が道路にすべり落ちないようにするためのものです。
【3】高山格子です。縦横の材の間隔があらく、山国らしい豪放さにあふれた意匠です。

いまさら説明するまでもない、日本を代表する古い町並みが高山です。現在の町並みは1875(明治8)年の大火後に再建されたものですが、飛騨の匠が建てた重厚な町家が軒を連ねています。とくに隣家と軒の高さを揃えた家が連なる光景は見事です。
江戸時代の高山には、家を建て直す際にも隣家と軒高や立面を揃えるという不文律がありました。天保7(1836)年、一之町の大坂屋吉右衛門が、2年前に居宅の表側を空地にして建て直したが不都合であるため、「町並」まで居宅を引き出したいといううかがいを出しています。こうした住民たちの美意識によって、高山の景観は守られてきたのです。


1階の軒ばかりか、屋根の高さまでが統一された一角

まるで帽子をかぶっているかのように、屋根の軒の出が深いのが印象的
また、外観では、屋根の軒が深く、対照的に1階の庇が浅いことも印象的。そして屋根の勾配はあくまで緩く、雪がすべり落ちないよう配慮されています。
高山の家は、ほとんど木そのものといってもいいくらいに木部が目立っています。柱や梁などの構造材はもちろん、格子などの造作材にも木材の使用を徹底しました。これは飛騨地方が木材資源の豊かな土地だったことに加え、他都市との交流がほとんどない「陸の孤島」として、地元で採れる木材を使わざるを得ないという事情もあったようです。
真壁造りだが土壁がほとんど見えず、「家すべてが木」という感じがする
高山の町並みを印象付ける、ほとんど「黒」といってもいいこげ茶色は、木材本来の色ではありません。煤を混ぜたベンガラを塗装しているのです。その理由について伊藤ていじ著『民家は生きてきた』には、建材としての使用が禁じられていた木材を使っていることを隠すため、と書かれています。何でも当時、表向き建材として認められていたのは松のみで、ヒノキやヒバなどは役人に賄賂を贈ることで入手していたのだとか。
 
デザイン面では高山格子も特徴的。縦材、横材ともに間隔が広く、しかも横材は上のほうがより間隔を広く取っています。この理由について、『日本の町並みI』(2003)には「明かりを採り入れるため」と書かれていますが、それ以外の資料では明確に説明されていません。
『滅びゆく民家 屋根・外観』(1973)には高山格子に関する項目があるものの、「この町の格子は竪子をまばらに配した形式が特色で、内部の紙障子の白さに映えて誠に美しい」と、著者の川島宙次が自らの印象を述べるにとどめています。

格子の隙間は家ごとに異なる

高山格子をはめた家並み

目の細かい親子格子もあった


【住所】岐阜県高山市上三之町・上二之町
【公開施設】高山市政記念館、藤井美術民芸館、飛騨民俗考古館
【参考資料】
『高山旧城下町の町並み 下二之町・大新町地区伝統的建造物群保存対策調査報告』高山市教育委員会、2003年
『民家は生きてきた』伊藤ていじ著、鹿島出版会、1963年(2013年再版)
『別冊太陽 日本の町並みI 近畿・東海・北陸』平凡社、2003年
『滅びゆく民家 屋根・外観』川島宙次著、主婦と生活社、1973年

2014年2月9日撮影


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