白川郷
しらかわごう

日本民家史上、最大の謎とは

人が手を合わせた姿を思わせる合掌造りの家は、岐阜県と富山県の限られた地域(庄川流域)でのみ見られる民家形態です。戦後のダム建設で、まとまって残る集落は3カ所だけになりました。白川郷の荻町は、中でも最大規模。

【1】白川郷・荻町の家はみな同じ方向(南北方向)を向いて建てられています。冬の季節風の抵抗を減らすと同時に、屋根を東西に向けることで雪を溶かしやすくしています。
【2】ハサ小屋(収穫した稲を干す小屋)までもが合掌造りでつくられています。さすがは白川郷!
【3】4階建ての家もあります。しかし合掌造りの家は、2階以上は床や天井はなく、梁の上にスノコを敷いているのみ。居住空間ではなく、養蚕に使われました。
【4】合掌造りといえば、傾斜角50度を越す急勾配の屋根ですが、なぜこんな形をしているのか、また、なぜ庄川流域でしか見られないのか、確かなことは分かっていません。
合掌造りの発生と分布については不明なことが多く、日本民家史上最大の謎のひとつとされることもあり、「成因を突き止めた論文を発表すれば、それだけで博士号を取得できる」という人までいます。(建築家O・T氏談)。

白川郷の合掌造りは非常にインパクトのある民家です。何十棟もが寄り添う荻町集落は、観光ガイドで「失われた日本の風景」などと紹介されますが、一言で「心のふるさと」と言い表せないほど、あまりにも不思議、あまりにも独特な家です。


合掌造りは屋根が急勾配であるため、3〜4階建てになる

白川郷で屋根の改修風景に出合った。筋交いが見える
構造的に変わっているのが、筋交い(すじかい)をもつこと。木をX字型に組む筋交いは、日本の伝統建築では見られない工法です。「地震に強い」といわれる五重塔をはじめ、日本建築は柔構造で地震の揺れを受け流しますから、筋交いで建物を固めることはありませんでした。
白川郷では筋交いのことを「はがい」と言います。屋根があまりにも巨大で、妻方向に倒れるリスクがあるため、「はがい」を入れているのです。
それにしても、「はがい」を入れて補強してまで、なぜ巨大な屋根を掲げる必要があったのでしょうか。
その背景には養蚕があると考えられています。日本の農家は江戸時代以降、養蚕の需要に合わせてさまざまに変化しました。合掌造りもその例に漏れず、屋根裏を蚕室とする必要性から、3〜4階建てになったと考えられます。ちなみに2〜4階はそれぞれ「した2階」「うえ2階」「そら2階」と呼ばれます。

重要文化財、和田家住宅
分からないのは、なぜ合掌造りの家が、庄川流域の限られた地域でしか見られないか、ということ。いくつかの説をご紹介しましょう。

ひとつ目は、豪雪地帯であり(積雪量は多いときで4メートル)、雪を下ろしやすくしているという説。しかし雪国では落雪のリスクを避け、屋根勾配を緩くするのが一般的であり、説得力を欠きます。

2つ目は同じく雪に原因を求めるもので、冬季に外出しなくとも済むように、1棟にすべての機能を集約させたとする説。現に白川郷の民家は蔵などの付属屋をほとんどもちません。ただしこの説も前説同様、ほかの雪国で見られない理由を説明できません。

3つ目は大家族が暮らしたためという説。庄川流域は耕作地が少ない貧しい土地で、長男以外は妻をめとることができませんでした。次男や三男は妻問婚をして生家にとどまり、生まれた子どもは妻の家で養われました。自然と一家の人数は増え、現金収入を得るため養蚕に力を入れる必要があり、屋根を高くしたというのです。
実際、庄川流域では、家族の少ない家は屋根勾配が緩い傾向にあるようですが、必ずしもすべての家に当てはまるわけではなく、7〜8人暮らしの家が急な屋根をもつこともありました。

そして最後に、変わり者の大工が建て、それが広まったという説もあるそうです。

木造4階建ての明善寺庫裏(くり)
伊藤ていじの『民家は生きてきた』の記述内容を要約すると、以下のようになります。
・大家族を養う現金収入を得る目的で、養蚕の需要が高まった。
・蚕室として屋根裏空間を広く取る必要が生じた。
・しかし従来の板屋根のまま屋根裏を確保すると、建物本体を2〜3階建てにしなくてはならず、大工工事費がかかる(板屋根は屋根勾配が緩い)。
・屋根を茅葺きにして傾斜を急にすれば、建物本体は1階部分のみで、大工工事費を抑えられる。
・こうして合掌造りが生まれた。
伊藤ていじはこう書いています。
〈白川郷の合掌造は封建制の重圧と山間僻地の低い生産力のもとに生まれでた悲劇の民家形態ということができるだろう。〉


【住所】岐阜県大野郡白川村荻町
【公開施設】和田家住宅、長瀬家住宅、神田家住宅、明善寺郷土館
【参考資料】
『民家は生きてきた』伊藤ていじ著、鹿島出版会、1963年(2013年再版)

2003年3月6日、14年2月20日撮影


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