石徹白
いとしろ

北壁に窓がないわけ

霊峰・白山への登山道である美濃禅定道(ぜんじょうどう)にある石徹白は、信仰登山の人々が泊まった宿坊の町。一見しただけでは、ふつうの農村のようですが……。

【1】石徹白は4つの地区で構成されています。山並みに囲まれた上在所は神域とされた最奥の地区で、御師(おし)など宗教従事者が暮らしていました。
【2】家の特徴は軒出が短いこと。雪国では風雪をよけるため長くするのが一般的ですが、ここでは平均95センチしかありません。同じ切妻民家でも、飛騨高山のものは150センチ以上ですから対照的です。理由はよく分かりません。
【3】御師の家は室内に信仰の場(神殿)があります。その場所は2階の白山側、つまり北側と決まっていました。ゆえに北側の壁には窓がありません。

白山は奈良時代に修験道場として開かれて以来、熊野に並ぶ霊場として、多くの山伏が集まりました。室町時代に入ると武士の台頭にともない、豪族の庇護を受けにくくなったことや、折からの浄土真宗の発展によって衰退しましたが、替わって盛んになったのが庶民の信仰登山です。


霊峰白山に通じる美濃禅定道沿いにある石徹白集落(上在所)

白山中居(ちゅうきょ)神社。上在所地区の最も奥にある
当時、1人の信者が登るだけで、ふもとの集落では渡船代、宿泊代、祈祷料、入山料など多くの収入を見込むことができました。そんなわけで布教活動に躍起になったわけですが、とくに大勢の宗教家(御師)が暮らしたのが石徹白でした。
石徹白の御師は郡上街道を下って美濃・尾張・三河地方に熱心に布教しました。現在、全国に2700〜2800社ある白山神社の約半数が東海地方にあるのは、これが原因だといわれています。

中居神社は江戸時代の彫刻が見事。写真は拝殿

中居神社本殿の木組み
石徹白は郡上街道から続く登山道の美濃禅定道にあって、本格的な山登りが始まる前、最後に宿泊する宿坊集落でした。信者は祈祷や道案内を行う御師の家に泊まりました。そのため御師の家の中には、祈祷場としての神殿があります。神殿はふつう、2階の白山側の部屋につくられました。このため石徹白の家は北側に開口部をもちません。
右写真は御師・石徹白伊織家。江戸時代末期に建てられた集落最古級の建築です。左の妻壁が白山側になります。

御師・石徹白伊織家(上在所)

御師・石徹白清住家。1888(明治21)年改築。こうして見るとふつうの家だが……

白山に面する北側の壁には窓がない。ここに神殿がある(上在所)
   
石徹白は南北3キロにおよぶ広大な地域で、上在所、西在所、中在所、下在所の4集落で構成され、各集落に江戸〜明治時代の御師住宅が残されています。
外見上の特徴は、雪に埋もれても傷まない板壁であること、また、雪がすべり落ちないよう屋根の傾斜がゆるいことなどです。

雪原の中の切妻民家群(下在所)

江戸時代末期のU家住宅(西在所)
集落景観でいえば、「ゆ」(湯)と呼ばれる水路と、「ちゅうじ」と呼ばれる石積みが特徴。「ゆ」はそれぞれの敷地に引き込み、雪を溶かすために使われます。西在所と中在所ではほとんどの家が大型の消雪池をもっていました。
左は西在所の家ですが、池の石組みがとても立派でした。消雪以外にも禊などで使われたのでしょうか。
また、宿坊の流れを汲んでいるのでしょうか、石徹白には民宿がたくさんありました。右写真は2軒とも民宿です。手前の家は持ち送りが立派ですね。


石徹白の民宿(中在所)


伝統的な雪囲いをもつ威徳寺(中在所)
左は浄土真宗の道場として創建された威徳寺。江戸時代、白山中居神社と権勢を競い合い、結果として70名の餓死者を出すこととなった「石徹白騒動」で知られる寺院です。


【住所】岐阜県郡上市白鳥町石徹白
【公開施設】なし
【参考資料】
『石徹白の歴史的建造物、まちなみ調査報告書』工学院大学後藤研究室編、郡上市、2006年
『めざそう!世界遺産 白山・金沢の文化遺産』財団法人北國総合研究所編、北國新聞社出版局、2005年

2014年2月10日撮影


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