郡上八幡北町
ぐじょうはちまんきたまち

大火がつくった町

吉田川、初音谷(はつねだに)川、小駄良(こだら)川に囲まれた名水の地、郡上八幡。吉田川の北に広がる北町には、袖壁が連続する古い町並みが残っています。

【1】北町は承応元(1652)年の大火でほぼ全焼しました。その後、防火目的で城下の隅々までめぐらせた水路は、いまも八幡の町をうるおしています。
【2】1919(大正8)年、北町は再度全焼。再建にあたり、江戸時代以来の広い敷地が再分化されました。各家の間口は2間半〜3間と狭く、袖壁がまるでドミノのように連続する景観が生まれました。
【3】家の軒下にバケツを吊るします。防火意識の高い郡上八幡ならではの光景で、いざというときに水路の水を汲めるようにしています。

郡上八幡北町は大正期に大火に合い、その後再建されました。建造年が確認されている建物のうち、大火前のものはわずか6棟しかありません(うち4棟が寺院建築、2棟が土蔵)。大火後に土地を分筆して町家を並べ、今日見られる町並みが形成されました。


間口の狭い家が並ぶ。突き当たりは長敬寺(職人町)

袖壁の連続が見事(中柳町)
郡上八幡はいくつもの表情をもつ町です。毎年夏の郡上踊りをはじめ、全国初の木造再建城である八幡城(1933=昭和8年)、それに吉田川の川遊びも、郡上八幡の風物詩です。
「名水の地」でもあり、環境省の名水100選に選ばれた宗祇水(そうぎすい)をはじめ、多くの湧き水があります。一帯はカルスト地形で水分を吸収しやすく、地下水の豊富な土地なのです。

宗祇水。水源に近いほうが飲用で、下側は洗い場とされる

宗祇水の水源
水はそれぞれの町内をめぐっています。北町には南北方向を走る通りが3本あり、そのすべてにおいて、道の両側に用水が引かれています。水路には、家ごとに板を落としてせき止められるようになっていて、いまも洗い場として使われています。水流は意外と速く、清らかなせせらぎを響かせていました。
長敬寺前の北町用水。ここから職人町と殿町に流れていく

袖壁の町家と水路、そして防火バケツ(職人町)
ところで、これらの水路とセットになっているのが軒下のバケツです。防火用のものですが、隣の家、そのまた隣の家にもバケツが吊り下げられているのは独特です。
『歴史に学ぶ減災の知恵』(大窪建之著)にも、「そもそもなぜ軒下に『置く』のではなく軒先から『吊るしている』のかが非常にきになる」とあります。大窪氏はその理由を「素早く水を汲まなければならない時のことを考えれば水路にふたをしてその上に置くわけにもいかないため、(略)消去法で場所が決まったものと考えられます」と記述しています。
また、その景観については「防火バケツのデザインは通りごと、町ごとに個性が現れているため、防火上の効果だけでなく街路景観の特徴の一つにもなっており、今も災害安全と町のアイデンティティーを示す、重要な景観要素として親しまれています」と、高く評価しています。
   

東西方向の道には水路がない(大手町)


木造旅館がある町角(下柳町)


【住所】岐阜県郡上市八幡町職人町、八幡町鍛冶屋町、八幡町本町、八幡町殿町、八幡町大手町、八幡町柳町ほか
【公開施設】なし
【参考資料】
「新選定の文化財」『月刊文化財』2012年12月号所収
『歴史に学ぶ減災の知恵』大窪健之著、学芸出版社、2012年

2014年2月10日撮影


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