湯之奥
ゆのおく

金採鉱の前線基地

湯之奥はその名の通り下部温泉の奥にある集落。背後には江戸時代中期まで金山がありました。

【1】湯之奥は急傾斜の道沿いに10戸ほどが集住した集落。どの家も石垣で整地しています。
【2】道沿いの水路から水を引き入れ、洗い場をつくった家が見られます。
【3】この道をずっと登って行くと金山のひとつ、中山金山がありました。

湯之奥集落は「信玄の隠し金」といわれた湯之奥金山の麓に位置します。金鉱は3つあり、集落から下部川沿いに東へ登ると中山金山、集落の北から入ノ沢を登ると茅小屋金山、内山金山がありました。採鉱が始まったのは遅くとも天文年間の1550年ごろ。以後200年ほど掘り続けられましたが、金の枯渇によって江戸時代中期に閉山しました。
湯之奥は山間部の集落

一本道の両側に石垣を組んで家を建てる

当時、3つの採掘場には集落がつくられ、代官屋敷や精錬所まであったそうです。その繁栄ぶりから湯之奥三千軒といわれましたが、いまやすべては土に帰ってしまいました。そんな旧鉱山地帯にあって、唯一現存する集落が湯之奥です。

湯之奥は開山に前後して開かれた鉱山の前線基地です。現在、集落内で金山時代の歴史を伝えるのが、門西(もんざい)家住宅。もともと武田一族の穴山氏に属した家柄です。この穴山氏が、戦国時代に湯之奥一帯を領した氏族で、金山衆という職人集団を組織して採鉱を行っていました。
武田氏・穴山氏が滅亡すると、この付近は徳川氏の所領となりましたが、門西家は引き続き金山の管理などを担当。閉山後も集落の名主を務めました。

門西家住宅

門西家住宅。ダイドコロに押板がある

現在の門西家住宅は、江戸時代中期初頭の建築と見られています。湯之奥金山が衰退し、事実上の閉山に追い込まれていたころの建築です。

湯之奥には門西家のほかにも古い茅葺きの家が見られますが、それらはみなトタンで補修されていました。かつて採鉱に携わる多くの人が行き交っただろう集落も、いまはひっそりと静まり返っていました。
トタンで直された茅葺きの家


【住所】山梨県南巨摩郡身延町湯之奥
【公開施設】門西家住宅
【参考資料】
『別冊太陽日本の町並み(3)関東・甲信越・東北・北海道』西村幸夫著、平凡社、2004年

2014年11月30日撮


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