谷村
やむら

町家の土台は武家屋敷

谷村は都留市の中心地で、歴史的にも山梨県の郡内地方(東部・五湖地方)の政治・経済の拠点でした。ここはかつては城下町で、江戸時代中期の廃城後、武士に替わって町人が進出しました。

【1】谷村城を取り巻くように街道や武家屋敷地が整備されました。城は早々と廃止されましたが、いまも土地区画は城下町時代の名残りを留めています。
【2】間口が狭く、奥行きが長い谷村の町家。建物が密集する日本の街道筋に典型的な土地割ですが、谷村はもと城下町で、武家屋敷地だったころからこの区画は変わっていません。
【3】破風板は庇の部分が厚くなります。郡内地方の町家の様式です。

山梨県は江戸時代、全域が幕府の直轄領(天領)だったため、近世の城下町は甲府と谷村くらいしかありません。このうち甲府徳川氏が治めた甲府の城下町は、太平洋戦争の空襲によって往時の面影を失いましたが、谷村では城下町時代の名残りが見て取れます。
谷村の町並み

表通りの1本東の町並み

その谷村藩も存続したのは江戸時代前期の100年ほど。宝永2(1705)年に谷村城は廃城となって武家は転出し、以後は町場となりました。しかし城下町時代の町割のまま町人が進出したため、土地区画や道路網は改変されることなく、現在まで受け継がれています。

谷村を貫く国道139号は、甲州街道から分岐して富士山に向かう参詣道(富士道、谷村道)でした。江戸時代以降の富士登山ブームに乗って、この街道筋も大いににぎわったのでしょう。そのころは何軒か旅籠もあったのでしょうが、現在では「ますや」の屋号を掲げた1軒だけで、しかもすでに営業されていない様子でした。
旅館ますや

富士道。町並みの北側からは富士山頂が見える

旧仁科家住宅

町並みは断続的ですが、ところどころに上質な商家が残されています。左写真の旧仁科家住宅は1921(大正10)年ごろに建てられた土蔵造りの家。1階正面には金属製の雨戸が入れられ、かつては銀行だったのかとも思いましたが、案内板によると絹織物商家とのこと。それにしても重厚な店構えですね。


旧仁科家の1階建具


町並みには洋風建築も見られる

町家はみな切妻造りで、妻側の屋根には破風板が付きます。この破風板は庇部分だけ厚さが異なるのが特徴で、山梨県東部の郡内地方でよく見かける造作です。右写真の家では、1階の庇にも大きな破風板が付けられています。


【住所】山梨県都留市中央1・2・4丁目、上谷2〜5丁目
【公開施設】なし

2016年2月28日撮


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