上吉田
かみよしだ

御師住宅に2系あり

上吉田は富士山の参拝者を世話する御師(おし)の集落。歴史は古く、集落の形成は戦国時代にさかのぼります。江戸時代に入ると参拝者の増加から、新たな御師が出現しました。

【1】町並みの向こうに富士山がそびえます。上吉田は、日本で最も劇的な町並みのひとつでしょう。かつては聖地とされ、御師など富士信仰に携わる者しか住むことができませんでした。
【2】古い御師住宅は敷地が極端に細長く、主屋は50メートルほど奥まったところに建ちます。そのため、表通りからは見えません。この先にも1軒あります。
【3】新しい御師住宅は土地の制約から、通り沿いに建ちました。道路に面してお寺のような門を構えるのが、これら新しい御師住宅です。

富士山を間近に臨む上吉田は、古くから富士登山の拠点だった場所。富士急行の富士山駅前に立つ金鳥居(かなどりい)から南の富士山寄りは聖域とされ、かつては御師など宗教関係者しか住むことができませんでした。
御師とは富士山へ信仰登山する人々のため、自らの住居を宿坊として提供し、祈祷などを行った者のこと。最盛期には100軒以上の御師住宅があったといいます。

上吉田の町並み

左の門柱に「東京 豊松講社」とある(小佐野家)

上吉田の御師住宅には2つの系統があります。ひとつは、元亀3(1572)年の水害を機に、古吉田から当地へ転居した御師が建てた旧式のもの。「本御師」と呼ばれます。敷地は細長く、入口には定宿とした講(宗教団体)の名前を刻んだ石柱門が立っています。

石柱門から主屋までは、タツミチと呼ばれる50メートルほどのアプローチになっています。宿泊者が出発する道(発つ道)とされていますが、ともに上吉田を散策したわたしの父は「危険をともなう登山に向かうことから、現世との関係を“絶つ道”ではないか」と解釈しています。
タツミチの奥から表通り方向を見る(毘沙門屋)

ヤーナ川(旧外川家住宅)

タツミチの突き当たりには中門があります。中門は木造の薬医門が多いようですが、下写真のように石柱門とする家もあります。
門の先にはヤーナ川という小川が流れ、小さな石橋を越えると主屋にたどり着きます。ヤーナ川の水はみそぎに使われ、宿泊者はここで身を清めてから主屋に入りました。


この家の中門は石柱門(大黒屋)
主屋も敷地同様に細長く、登山者が宿泊する客室が一列に並んでいます。縁側を広くつくっているのは、部屋に収まりきらない登山者の寝床を兼ねるため。
客室の一番奥には御神殿があり、登山者をお払いする儀式が行われました。

御師住宅の主屋(旧外川家住宅)

幅2メートル近い縁側(旧外川家住宅)


家の最奥にある御神殿(旧外川家住宅)


典型的な町御師の家(浅間坊)
富士登山は江戸時代に入ると爆発的な人気を博し、従来の御師住宅だけでは登山客をさばけなくなりました。そこで新たに御師を営む家が現れましたが、当時の上吉田には土地に余裕がなく、彼らは表通り沿いに家を建てました。本御師に対し「町御師」といわれ、石柱門もタツミチもなく、道に面して中門を建てています。
現在、上吉田には12軒の御師住宅が残っています。そのうち本御師が10軒、町御師が2軒。営業を続ける宿坊もありますが、いまとなってはほとんどが一般住宅となっています。


長屋門形式の中門もあった(上文司)


中門越しに主屋を見る(M家)
とはいえ、これほど特徴的な住宅建築が密集しているのですから、上吉田は国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)も狙えるはず。そう思い、旧外川(とがわ)家住宅のガイド氏に話をうかがうと、実際かつては重伝建をめざす話もあったそうですが、住民の合意形成で頓挫してしまったのだとか。しかしその後、旧外川家住宅は重要文化財になり、先行して重文指定を受けていた小佐野家住宅とともに、いまでは世界遺産「富士山」の構成資産にもなっています。


【住所】山梨県富士吉田市上吉田3〜7丁目
【公開施設】御師旧外川家住宅
【参考資料】
「御師 旧外川家住宅展示解説」

2011年5月1日、14年11月30日撮


戻る