赤沢
あかさわ

土間がL字をしてるわけ

赤沢は身延(みのぶ)山と七面山という2つの聖山の間にあり、参拝者が宿泊する講中宿が整備されたところ。明治以降、参拝者の増加にともなって宿は大型化し、2階建ての壮大な外観をもつようになりました。

【1】赤沢の宿は江戸時代まで平屋でしたが、維新後に通行が増えたことで2階建てに改修されました。
【2】深い軒とL字形の土間もこのときに完成。これにより、大勢の宿泊客が同時に出入りし、荷解きできるようになりました。
【3】1階の軒下には定宿とした講の札が掲げられている、とのことでしたが……。この江戸屋にはありませんでした。

赤沢は背後に身延山を控える標高500〜600メートルの山間部にあり、春木川の谷を挟んで七面山と向かい合っています。
江戸時代中期、身延山と七面山を結ぶ身延往還が整備されると、2つの山の中間地点にあることから講中宿として発展。関東各地の講(宗教団体)は、ここで休憩・宿泊するようになりました。

赤沢の町並み。向こうに見えるのが七面山に連なる山並み

大黒屋

現在の赤沢には2階建ての大きな宿が多数残っていますが、これらは明治時代に改修されたものです。江戸時代までの宿は平屋建てで、維新後に旅行者が増えたことで、どの宿も客室を建て増していきました。

同時に、深い軒とL字形の土間もそなえられました。講は数十人で団体行動をしますから、チェックイン、チェックアウトのときは大わらわ。そこで大勢が一度に出入りしやすいよう、こんな間取りが考案されたのです。最盛期には昼夜を問わず、1日3回転させていたといいます。
L字形の特徴的な土間。宿の駅清水屋

角の縁板は扇形に組んでいる

2階には4〜6室ほどの客室を設ける

大阪屋。軒下にマネギを並べる
1階の軒下には、マネギと呼ばれる札を掛けます。かつて、講ごとに定宿が決まっていて、その証として講が奉納したものです。

大阪屋のマネギ。浅草、下谷など東京の地名が見える
赤沢の繁栄は明治から昭和初期まで続きましたが、戦後、自動車道が整備されると徒歩による参拝・旅行者は激減。宿の数も減り、2016年現在では江戸屋のみが営業しています。
急傾斜地に家が並ぶ


【住所】山梨県南巨摩郡早川町赤沢
【公開施設】宿の駅清水屋
【参考資料】
『別冊太陽日本の町並み(3)関東・甲信越・東北・北海道』西村幸夫著、平凡社、2004年

2014年11月30日撮


戻る