三国
みくに
平入りなのか、妻入りなのか
九頭竜(くずりゅう)川の河口に位置する三国は、江戸時代から明治時代にかけて、80軒の廻船問屋が連なる海上交通の拠点でした。その家並みは一見、平入り商家が並んでいるようですが……。 |
【1】廻船問屋は三国のメインストリートの南側(九頭竜河岸)に並んでいました。家並みの後ろに川が流れます。 |
三国の町並みを特徴づける「かぐら建て」の発祥について、詳しいことは分かっていません。歴史的には、妻入りの家に付けられていた庇が大型化して「前下屋」となり、それに2階を増築して完成されたことは分かっています。しかし、なぜ前下屋を2階建てにしなくてはならなかったのでしょうか。 |
初期のかぐら建ては建ちが低く、表通りからも主屋の妻面が見える |
時代とともにかぐら建ては立派になり、表からは平入りに見える |
1983(昭和58)年に旧三国町教育委員会がまとめた『三国町の民家と町並み』には、「前下屋に収納を増やそうとしたらかぐら建てにするほかなかった」という趣旨の説明がなされています。しかし、なぜ収納を増やす必要性があったのでしょうか。土蔵では不便だったのでしょうか。 |
旧岸名家のボランティアガイドさんの説明はこうです。 「岸名家は主屋を2階建てとし、2階には俳句を趣味とする主人が句会を開ける部屋をつくった。しかし、商売人が表通りの通行人を見下すことになってはいけないので、前下屋をツシ2階建てとし、句会の席から通りが見えないようにした」 なるほど、興味深い話ではありますが、岸名家以外にもかぐら建ての家がある理由は説明できません。 |
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笏谷石の土間(旧岸名家住宅) |
ところでこの旧岸名家は文政6(1823)年に建てられた、三国屈指の廻船問屋建築。土間一面に笏谷石が敷き詰められていますが、ふつうの家では「玄関まわりに敷くのがやっと」というほどの高級建材でした。 |
水琴窟(旧岸名家住宅) |
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仏間に安置された三国仏壇も高級品。漆塗りの仏壇なのですが、ほこりが立たない場所を選んで、なんと日本海の洋上で漆を塗ったといいます。そのことからまたの名を「沖塗り」といいました。欄間の一刀彫や、全面を覆う金箔も、三国仏壇のデザインの特徴。かつては飛騨高山からも、この超高級仏壇を買い求めに商人がやってきたそうです。 |
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かぐら建ての家が向かい合う |
話を戻して……。 |
今日の三国は越前ガニの産地として全国にその名を知られていますが、明治時代までは漁家は1軒もなく、家という家すべてが商家だったといいます。町は時代とともに、ダイナミックに変遷していくのですね。 |
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前下屋を妻入りで増築した、変則的なかぐら建て |
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2014年5月5日撮影 |