上板取
かみいたどり

重伝建と廃村のあいだ

板取は福井県を南北に隔てる木ノ芽峠の峠道にある宿場町です。ここではいち早く町並み保存運動が起こりましたが、過疎化が進んだため往時の規模で残されることはありませんでした。現存するのは4棟のみです。

【1】板取の家は全戸が妻入りです。その理由は大きく2つ。屋根の雪が街道に落ちるのを防ぐため、そして、限られた土地に1戸でも多く建てるためです。
【2】木ノ芽峠に続く山道にある上板取は、全長は200メートルほどですが、高低差は30メートルもあります。そのため敷地の境界ごとに石垣を築き、町並みを階段状にしています。
【3】上板取の家の屋根はかぶと造り。旅籠の客室への採光と通風を確保するためだったと考えられています。明治以降は2階で養蚕も行いました。

板取宿は室町時代末期、東近江路の宿場町として整備されました。東近江路は、近江と北陸を結ぶ最短経路として大いに利用された幹線道でしたが、明治以降は鉄道や国道の開通とともに重要性が失われました。時代から取り残されたことが幸いして古い家並みが残されましたが、あまりにも雪深い山中にあることから戦後は過疎化が進みました。


国道365号線から分かれる旧道。石畳の道の先にかつての宿場がある

行く手に家並みが見えてきた

そんな中、文化庁では全国の城下町や宿場町などの「町並み保全」に着手するようになります。これが重要伝統的建造物群保存地区の制度に結びつくわけですが、板取は1974(昭和49)年に文化庁が保存対象として選出した10地区に含まれました。
しかし、このときすでに廃村に向けた行政措置が取られており(実際の廃村は1975年)、国の保護区にはならず、旧今庄町が独自で保全していくこととなりました。

廃村により最後まで残っていた10戸はすべて下山。上板取地区の4軒が保存用として残されることとなりました。その後、近くにスキー場が開設されると、冬期に除雪車が入るようになったことから、新たに2世帯が移住。こうして板取宿は、再び人の暮らす集落として歩み始めました。2012年11月現在、このうち1世帯が生活を続けています。


旧増尾家の通し柱の舟肘木

上板取に残された4軒のうち、最も北にある家(旧増尾家)が資料館として公開されています。屋根はかぶと造りで、正面の中央に2階天井までのケヤキの通し柱が入れられています。この柱の頂部には舟肘木(ふなひじき)という舟型の支えが入っています。舟肘木は社寺建築ではおなじみですが、民家ではほとんど採用例がありません。


旧増尾家住宅の外観
旧増尾家はかつては庄屋を務めたこともある旧家で、明治時代に入ってからも旅籠を営みました。現在の建物は下板取からの移築ともいわれていますが、創建時期は不明です。


旧増尾家住宅。入口に土間があり、その奥に板の間と座敷が並ぶ


旧竹沢家住宅

旧増尾家の隣に建つ旧竹沢家も同様のかぶと造り。建築は口伝によると1904(明治37)年とされます。2階に開けられた窓は養蚕のためのものでしょう。

旧増尾家・旧竹沢家の向かいに建つ2軒は、いずれも寄棟造り。北側の旧村田栄松家住宅は江戸時代末期の建築と推定される、上板取に現存する最古の家です。建ちが高く、軒が深いため、前面に降ろした下屋があたかも裳階(もこし)のように見えるのがおもしろいですね。
ちなみにこの下屋は、上板取の現存4棟すべてで見られました。雪囲いと納屋を兼ねた空間でしょうか。(そういえば上板取の家は付属屋をもちません。現存しないのか、それとも、もともと存在しなかったのでしょうか?)


旧村田栄松家住宅。江戸末と推定される上板取で最古の家


旧村田豊家住宅。屋根の葺き替えが行われていた

旧村田豊家住宅はやや小ぶりな家ですが、蔵を移築して改装したものと伝えられています。同じ寄棟造りでも、右隣の村田栄松家とはだいぶ見た目の印象が異なります。


【住所】福井県南条郡南越前町板取
【地図】トップ写真の撮影地点
【公開施設】旧増尾家住宅
【参考資料】
『福井県南条郡今庄町板取地区伝統的建造物群に関する調査研究報告書』福井大学工学部建築学科渡辺研究室編、1975年
『写真でみる民家大事典』日本民俗建築学会編、柏書房、2005年

2012年11月10日撮


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