大土
おおづち
村の変遷を記憶する
重要伝統的建造物群保存地区の「加賀東谷」は4つの集落で構成されています。大土はその最奥の集落です。 |
【1】山の斜面の、かろうじて傾斜が緩くなっている場所を選んで集落が営まれています。大土の歴史は、平家の落人が逃げ込んだことに始まるといいます。 |
大土は加賀平野の母なる川、動橋(いぶりばし)川最上流の集落。川岸の崖の上、背後に山の尾根が迫る場所に、まるで「そこしかない」といった感じで、集落がはめ込まれています。傾斜地に展開するため宅地の形状や建築配置には規則性がなく、わずか10戸の家が思い思いの方向を向いて散らばっています。 |
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大土は1937(昭和12)年、集落を全焼する火災に見舞われました。焼失を免れたのは大土神社の社殿と、集落の南東にある2棟の土蔵だけ。 |
1920(大正9)年ごろの大土神社社殿。覆屋は昭和初期 |
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したがって現在見られる家並みは、その後再建されたものですが、短期間のうちに一斉に再建されたと考えられており、どの家も東谷地方の特徴を継承しています。これが、「昭和の家並み」でありながら国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された理由です。 |
石垣と家並み |
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大土の家は、大なり小なり石垣の上に建てられています。棚田に点在する巨岩も、過去の土砂崩れで運ばれてきたといいますから、それだけ急な斜面に位置しているのですね。 棚田の岩のうち、ひときわ大きなものはシシボ石と名づけられています。石の脇にある文化財の解説板によると、耕作地を荒らすイノシシ(当地でシシボを呼ぶ)をこの石のところまで追い払ったことにちなむ名前だそうです。 |
また、大土には平家の落人伝説も伝わっていて、ラジオが普及する前まで武家言葉が使われていたとか。ラジオの普及というと、いまから70年ほど前のことでしょうか。山あいの集落らしいエピソードですね。 |
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2014年5月5日撮影 |