山手
やまて

宝石箱のような町

慶応2(1866)年の関内大火のあと、新たな外国人居留地として開かれたのが山手です。現在では1923(大正12)年の関東大震災後に再建された洋館の家並みが見られます。

【1】山手の洋館街は関東大震災で炎上後に再建されました。耐火性を高めるため外壁はモルタル仕上げなのですが、家ごとに思い思いのカラーリングが施されていて、まるで宝石箱の中を歩いているかのような思いです。
【2】洋館には暖炉が設けられました。多くの家が煙突を乗せているのがその証拠。
【3】山手の西洋館といえば切妻屋根。いくつもの屋根を巧みに組み合わせ、奥深い造形を生みました。

横浜港を見わたす高台の山手に外国人居留地が置かれたのは慶応3(1867)年のこと。前年、それまでの居留地だった山下町が火事で焼けたことがきっかけとなりました。居留地制度は1899(明治32)年に廃止されましたが、その後も外国人が多く暮らし、大正期までは居留地時代とほとんど変わらない風景が残されていたといいます。
山手は1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的な打撃を受けました。したがって現存する建築物のほとんどは震災後に復興されたものです。


高台に位置する山手の町。左は観光名所の外人墓地

横浜双葉中高の西にある、洋館の連なる路地

山手では戦後、多くの家が建て直されてきたため、連続性のある町並みは一部でしか見られません。そのひとつが横浜双葉中学・高等学校の西側一帯で、5軒の洋館がまとまって残されています。
山手の洋館は震災復興住宅であるため、木造でありながら外壁をモルタルで仕上げ、耐火性を高めています。暖炉をもつ家も多く、屋根にちょこんと乗せられたかわいらしい煙突がそれを物語っています。

デザイン面では、切妻屋根やマンサード屋根(二段勾配の屋根)、玄関ポーチ、出窓、それに多様なデザインの小窓などが特徴。モルタルの外壁や窓枠を思い思いの色で仕上げたり、その上に真っ赤なフランス瓦を乗せていたり、1軒1軒の家がまるで宝石のように輝きを放っていました。


1932(昭和7)年のB家住宅。コリント式の円柱に支えられた玄関ポーチをもつ

1930(昭和5)年のC家住宅。この家も窓枠の形が変化に富んでいる


昭和初期の山手76番館。窓枠の形が多彩。門柱も凝っている


1926(大正15)年の山手89-8番館。外国人向けの復興住宅として建てられた

昭和初期のI家住宅。玄関上のガラス窓の部屋はサンルーム

 


山手111番館のホール。1926(大正15)年築

エリア内には一般公開されている大型の洋館もあり、それらをめぐるコースは観光客にも人気。外光をふんだんに採り入れたサンルーム、華麗な装飾を施されたマントルピースなど、日本建築にはない空間設計や細部意匠を味わえます。


ベーリック・ホールのサンルーム。1930(昭和5)年築

ベーリック・ホールはスペイン風の建築で窓のかたちに特徴がある

黄色に緑の山手234番館(左)、白に赤のえの木てい

幅広の廊下をサンルームとするブラフ18番館。大正末期築、1993年移築


【住所】神奈川県横浜市中区山手町
【公開施設】山手111番館、横浜市イギリス館、外人墓地、山手資料館(移築)、山手234番館、エリスマン邸(移築)、ベーリック・ホール、外交官の家(移築)、ブラフ18番館(移築)
【参考資料】
『都市の記憶 横浜の主要歴史的建造物』公益社団法人横浜歴史資産調査会、2014年(改訂第6版)

2014年10月14日撮影


戻る