蓑毛
みのげ

御師集落の痕跡

江戸時代、多くの参詣者が押し寄せた大山のふもとには、彼らを先導する宗教的指導者の御師(おし)が住んでいました。蓑毛は大山の西の玄関口にあたり、多くの登山者が行き交いました。

【1】大山山麓の蓑毛に住まうには、土台を築いて水平にならす必要がありました。いまもひな壇状の土地利用が見られます。
【2】蓑毛は明治以降、山津波や地震などで被害を受け、御師集落としての歴史に幕を下ろしました。ひな壇状の土台に建つ家の多くも建て直されています。
【3】しかしこのお宅のように、伝統的な家もわずかに見られます。家の風格を示すかのような大きな玄関がありますが、かつての御師住宅でしょうか。

大山は雨乞いの山として、江戸時代に入ると関東近在の農民から篤く信仰されました。登山口には大山側と蓑毛側の2カ所があり、いずれも地名を「坂本」といったことから、蓑毛は「西坂本」と呼んで区別されました。


山道の両側に、かろうじてかつての御師住宅が残っている

かって、ひな壇の上に御師住宅が建っていた

蓑毛は大山に至る富士道と小田原道の合流点で、主に伊豆や駿河からの参詣者が通行しました。ここには参詣者に宿泊の場を提供し、儀礼や登山の案内を行った御師が居住し、独特の門前町がつくられていました。しかし1923(大正12)年の関東大震災後に生じた土砂崩れで壊滅的な被害を受け、御師集落としての歴史は唐突に終わりを告げました。

震災後は一介の農村となり、門前町としての賑わいは「東坂本」の大山にしのぶほかありません。しかし蓑毛では、かつて御師住宅が建っていた石垣の基壇や、往年の御師住宅の伝統を受け継いでいるような、独特の外観をもつ家もわずかに残されています。


路地の奥にも古そうな家があった

壁をトタンで補強した建物。納屋だろうか


集落の最奥の大日堂。現在の堂宇は江戸時代の建築


【住所】神奈川県秦野市蓑毛
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(14)神奈川県』角川書店、1984年

2010年3月20日撮


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