柳窪
やなぎくぼ

武蔵野は滅びず

雑木林、湧き水、茅葺きの家が織りなす「武蔵野」のイメージ。それをそのままかたちにした集落が、東京に奇跡的に残されています。

【1】家を取り囲む屋敷林。常緑樹は春先の強風を防ぐため、落葉樹は葉を肥料とするために欠かせない存在でした。
【2】主屋の脇にあるのが朱雀門。門の手前は農作業場、奥は庭になっています。
【3】武蔵野には茅葺き屋根が似合います。


柳窪の農家と雑木林の景観

柳窪は新河岸川の支流、黒目川の源流部の集落。昭和30年代に宅地開発が進むと、住民の中から「緑ある風景を守ろう」との声があがり、黒目川流域に昔のままの景観が保存されました。地区の南には交通量の多い新青梅街道が走っていますが、その道沿いからも、畑の向こうにこんもりと茂る緑を臨むことができます。
豊かに茂った緑の中には農家がたたずんでいます。幕末から明治にかけて建てられた家も多く、2階を蚕室とした養蚕農家が多数現存します。
下・右の野崎家住宅は1878〜79(明治11〜12)年ごろと推定される養蚕農家。座敷まわりは非常に凝ったつくりで、襖に貼られた書などに往時の経済力と文化的水準の高さをしのぶことができます。


野崎家住宅の座敷まわり


野崎家住宅、主屋


村野成美家住宅

柳窪の農家の建築配置は関東一円に典型的なもので、主屋の前に農作業場を有し、その片隅に蔵を建てます。また、主屋の脇に「朱雀門」と呼ばれる小さな門を置き、それより奥は座敷から眺める観賞用の庭としているのが特徴。主屋の背後には木々が茂り、冬から春にかけて吹きすさぶ風から家を守りました。
左は柳窪一といわれる屋敷林をもつ村野成美家住宅。主屋は1876(明治9)年築で、外観は改装されていますが、内部は昔のままだそうです。

奥住家住宅。前庭に面して蔵と主屋が並ぶ


奥住家住宅には柳窪で最後の蚕室が残る

養蚕とともに古くから行われたのが麦栽培。食用ではなく屋根材用として周辺地域に売ったほか、柳窪でも麦葺きの家がつくられました。当地に現存する最後の茅葺き民家、村野啓一家住宅もかつては麦葺きで、屋根の下層に古い麦材を見ることができます。


柳窪最後の茅葺き民家、村野啓一家住宅


村野啓一家住宅のミセ


屋根の軒を見上げたところ。下から二番目の黒っぽい層が麦材

柳窪では年間2回、集落内に残る旧家を探訪するツアーを開催しています。この手のツアーは住民の理解あってこそ。早くから景観保全に着手した土地ゆえ、住民の間にも「古い集落に住んでいる」という意識が浸透し、公開・利用にも積極的なのでしょう。


【住所】東京都東久留米市柳窪1・4・5丁目
【公開施設】通年公開の施設はないが定期的に見学会が行われている
【参考資料】
「柳窪実測調査」鈴木賢次研究室、NPO法人東久留米の水と景観を守る会

2014年10月4日撮影


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