佃島
つくだじま

取り残された江戸

佃島は江戸時代初期、大坂の漁師が移住して開拓した人工の島です。それから400年近くの時をへたいまも、漁家(ぎょか)の特徴を伝える町家が見られます。

【1】佃島の漁家は土間に内井戸をそなえます。土間は魚や漁具を洗う作業場だったのです。
【2】土間で作業するときには、水はけをよくするため玄関の敷居を取り外しました。ここに切れ目が入っているのがお分かりでしょうか。取り外し可能な敷居は、その家が漁家だったことの証です。
【3】共用の井戸もたくさんあります。これらも江戸時代から明治にかけて、漁具を洗うために使われました。いまでは植木の水やりに使われています。

佃島は200メートル四方の小さな島です。近代の埋め立てによって、東京湾ははるか遠くへ追いやられてしまいましたが、江戸時代にはここがウォーターフロントの最前線でした。当時の佃島はほぼ全戸が漁師という漁村で、徳川将軍家に献上するため白魚漁などを営んでいました。漁業は大正以降に衰退し、1962(昭和37)年に漁業権は放棄されましたが、ここに建つ家はいまも漁村時代の記憶を宿しています。


堀割に小舟が浮かび、漁村の面影をかろうじてとどめている

天安本店。30センチほどもある束石や、取り外し可能な敷居をもつ

佃島の家に見る漁村の記憶――。それが、土間で漁具を洗うための内井戸、取り外し可能な玄関敷居、そして、高潮にあっても家の柱が海水に浸からないようにする高い束石です。
束石は高いものは30センチほどあり、佃煮の老舗として有名な天安本店のものはとくに立派です。この建物は佃島では比較的新しい1938(昭和13)年の建造ですが、土間の内井戸や取り外しできる敷居などをそなえ、佃島の典型的な漁家建築となっています。


佃島らしい礎石の高い民家。大正期の建造。左に井戸がある


二軒長屋も高い基礎の上に建つ。1930(昭和5)年ごろ

佃島には内井戸のほか、路地にたくさんの共同井戸がありました。内井戸をそなえたのは魚の仲買商人や佃煮職人などで、それ以外の一般の漁民は共同井戸を使いました。共同井戸は終戦直後は10基以上あったようですが、漁業権放棄後の町内会の組織力低下などにより、いまでは5基に減っています。


路地の共同井戸はすべてポンプ式。奥の家は1910(大正9)年築の漁家

堀割沿いの稲荷神社。川向こうのビルの間にも神社が見える

江戸時代のままの町割が残されていることも佃島の特徴です。実は佃島はひとつの島ではなく、堀割を挟んで向かい合う大小2つの島からなっていました。堀割の近くは空間が広く、ゆったりとした河岸(かし)になっていて、神社や湯屋、井戸など公共性の高い施設が並びました。町の鎮守の住吉神社をはじめ、各町内にある3つの稲荷神社、最後の銭湯・日の出湯などは河岸にあります。

2島のうち大きな島のほうでは田の字型に道路が引かれました。中央の交差点は厳密な十字路ではなく、ややカギ状にずれています。戦時中の建物疎開で部分的に道幅が広がりましたが、いまも400年前のカギ状道路の痕跡は残されています。
東京駅から直線距離にしてわずか2キロの地に、これほどくっきりと江戸の痕跡がみとめられることは、奇跡的に思えます。


カギ状にゆがむ佃島の中央交差点

細路地の途中に、いちょうの巨樹がシンボルの佃天台地蔵尊が祀られている


1921(大正10)年の邸宅。佃島には良質な木造住宅が多い


【住所】東京都中央区佃1丁目
【公開施設】なし
【参考資料】
『月島 再発見学』志村秀明著、アニカ、2013年
「佃島(現佃1丁目)の町並」山崎弘著

2013年11月17日、12月8日、2015年8月1日撮影


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