月島
つきしま

名物を生んだ二畳間

1棟の建物を複数に分割した集合住宅の長屋は、江戸時代以降、庶民の住宅としておなじみの存在でした。もともと平屋だった長屋は、大正以降2階建てとなり、全国各地に普及しました。その密集地のひとつが月島です。

【1】幅1間(約2メートル)の道路の両側に、四軒長屋がずらりと並びます。これらの長屋は関東大震災後に建てられた復興住宅です。2階より1階のほうが前に出ているのは、江戸の町家建築を踏襲しているためでしょうか。
【2】間取りや外観は、隣り合う家どうしで対称型になっています。玄関が接するところに目隠しのための立板があります。
【3】長屋には庭がないため、住民は路地に植木を飾りました。この緑が、月島の路地に独特の風情を与えています。

1892(明治25)年に埋め立てられた月島は、近隣の造船所や鉄工所で働く人が暮らした「労働者の島」でした。現在の町並みは1923(大正12)年の関東大震災後のもの。震災復興住宅として町じゅうに2階建ての長屋が建てられ、その多くが現存しています。


鉢植えが並び、洗濯物がはためく。懐かしい東京の風景

長屋の裏手に裏路地が走る

長屋はその名の通り、1棟の細長い建物を複数に分割した集合住宅。月島の長屋はほとんどが二軒長屋か四軒長屋です。間取りは画一的で、1階は玄関脇に二畳間があり、その奥に居間(四畳半)と台所(三畳相当の板の間)、2階には2つの部屋が設けられています。
台所には勝手口があり、そこを出ると幅1メートルほどの裏路地となっています。


裏路地の景観。これぞ月島!
月島長屋の間取りで興味深いのが、玄関脇の二畳間です。部屋とするには狭く、物置には広い、ちょっと使いづらい空間です。
二畳間の謎について、かつて月島長屋に住んだ比較文学者の四方田犬彦(よもた・いぬひこ)氏は、著書『月島物語』で「台所の痕跡」と説明しています。


月島長屋の二畳間。ちなみに、わたしの生家です


玄関から見た長屋。奥に居間、台所が続く。右が二畳間

江戸時代、長屋の玄関土間には台所(表台所)が設けられていました。井戸のある路地に出やすく、何かと便利だからです。しかし大正以降、各戸に水道が引かれるとその必要性はなくなります。とりわけ震災後に一斉に建てられた長屋において、プライベートな性格の強い台所は家の最奥にある板の間へと移動し、あとには「台所の痕跡」が残りました。
〈これ(※引用注:二畳間)は台所が玄関から完全に独立する直前に設けられた曖昧な空間の名残であり、ある意味ではかつて存在していた表台所の唯一の痕跡であるといえるのだ。水棲動物に足と肺が生じ、やがて陸にあがって哺乳類が生じたように、井戸と深い関係にあった土間の台所はこの1世紀の間に「陸にのぼり」、板の間と化して、客の眼の届かない後方へ退いた。したがって二畳間は埋立地月島に似て水辺に出自をもつ場所であり、かつての台所の位置にあってその記憶を無意識裡に留めている空間なのである
――四方田犬彦著『月島物語』(集英社、1992年)より


1階の最奥は板の間。床下に収納がある


商店がもんじゃ屋に鞍替えしても、2階の看板は昔のまま

偶然生まれた二畳間は、やがて月島名物を生むことになります。昭和初期、長屋の住民は、どうにも使い勝手の悪かった二畳間を利用して駄菓子屋を営むようになりました。子どもたちに人気だったのが、水にといた小麦粉を焼いて食べる「文字焼き」です。終戦間もないころ、比較的入手しやすかった小麦粉料理は庶民に浸透し、やがて文字焼きを専門に扱う店が生まれました。
そう、これが月島もんじゃの起こりといわれています。もんじゃ焼き(文字焼き)自体は江戸時代以前から存在した食べものですが、月島が日本一のもんじゃ焼きの町になった背景には、二畳間の存在があったのです。
1990年代以降、月島にはもんじゃ屋が急増し、メディアでも頻繁に取り上げられるようになりました。
その一方、昔ながらの風景は失われつつあります。大規模再開発は1996年ごろから相次ぎ、いまもって驚異的な――いや、「脅威的」というべきでしょうか――スピードで変化し続けています。ヒューマンスケールな路地と長屋の町並みは、21世紀を生き抜くことができるのでしょうか。ああ……。


【住所】東京都中央区月島1〜4丁目
【公開施設】なし
【参考資料】
『月島物語』四方田犬彦著、集英社、1992年


戻る