小川
おがわ

新田開発の痕跡

江戸時代初め、青梅街道の開通とともに開拓されたのが小川新田です。街道の両側の土地を短冊状に区画して開墾し、居住した人々は石灰運送などに使役しました。いまも当時の区割りは残されていて、極端に細長い短冊状が見て取れます。

【1】青梅街道の両側に、くしの歯のように何本もの脇道が伸びています。この道によって土地が短冊状に区画されています。
【2】小川新田では青梅街道側(写真撮影地の背)に主屋を建てました。主屋は屋敷林で守られています。
【3】屋敷地の背後に広大な畑が広がります。畑には玉川上水から分水した水路がめぐらされています。

小平市の西部、東西方向に走る青梅街道の両側に、極端に細長い土地区画が並んでいます。幅は20メートルほど、対して奥行きは400〜600メートルもあります。実はこれ、江戸時代初期に行われた新田開発の名残。航空写真で見ると、クシの歯のように無数の細路地が並走している様子が分かります。


小川付近の航空写真 (C)NTT空間情報/Yahoo Japan

400メートル以上も伸びるクシの歯の道。左右への抜け道はほとんどない

小川新田では青梅街道の両側に、玉川上水から分けた小川分水を引き、街道に面して屋敷を構え、その後方を畑としました。近代に入り宅地開発が進みましたが、クシの歯の路地どうしを結ぶ道が引かれることは稀で、いまも新田開発当時の細長い区割が残されています。

周囲にさえぎるもののない武蔵野では、春になると赤風が、秋には台風が吹き荒れました。赤風とは、乾燥した関東ローム層の赤土を舞い上げる春の嵐のことをいいます。強風の被害から家を守るため、農家は鬱蒼と茂る屋敷林を発達させ、武蔵野の原風景ともいえる景観をつくり出しました。


青梅街道沿いの農家。屋敷林が茂る

竹内家の屋敷林

街道の南側にある竹内家には、寛文年間(1661〜72年)の入植当初に植えられた大ケヤキが残り、地域のシンボルとなっています。
屋敷林の景観は東京都練馬区や多摩地方、埼玉県南西部で広く見られますが、新田開発当時の区割と合わせて現存する例は少なく、小川は貴重な存在です。


入母屋造の竹内家住宅主屋

非常に大きな納屋をもつ家。主屋は新築されている


この家も主屋は新築だが、蔵と植栽がいい感じだった


【住所】東京都小平市小川町1〜2丁目
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(13)東京都』角川書店、1978年

2013年11月17日撮


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