神楽坂
かぐらざか

「いき」の実像

「いき」について知るには、九鬼周造の快作『「いき」の構造』を読むのもいいですが、神楽坂を歩いてもいいでしょう。歩を進めるごとに、それまで曖昧模糊としていた「いき」が明確な像を結んでいくはずです。

【1】路地裏の石畳は、ここが「夜の街」であることの証。アスファルトのなかった時代、夜でも歩きやすいように石畳が敷かれたのです。
【2】黒塀は、料亭が現実から隔絶された世界であることを示す象徴的な装置。2011年には黒塀プロジェクトが始まり、神楽坂全体で黒塀が復活しつつあります。いきな試みですね。
【3】路地と料亭の間に、緩衝空間として前庭を設けます。敷地の関係で前庭を設けられない場合は、建物を後退させたり、1階の一部をくり抜いて擬似的な前庭をつくる努力を惜しみません。
これらは客どうしが鉢合わせないようにするための配慮だといわれています。こうした配慮こそ、いきではありませんか!

江戸時代の神楽坂は武家屋敷地でしたが、善国寺(毘沙門天)の門前には茶店が連なっていました。この茶屋街をもとに花街が成立したのは明治時代のこと。維新後、空き家になっていた武家屋敷に置屋や料亭が入ったのがはじまりとされます。1923(大正12)年の関東大震災後は焼け出された下町の芸妓が集まり、昭和初期にかけて全盛期を迎えました。


善国寺は今も町のシンボル

善国寺(右奥)の向かいの兵庫横丁

神楽坂は1945(昭和20)年5月25日の山の手大空襲で全焼したものの、戦後いち早く復興し、料亭街が再生されました。その町並みは健在で、路地裏には石畳と黒塀が連なり、2階建ての料亭が連なっています。

神楽坂ではいたるところに「いき」が具現化されています。たとえば路地裏の黒板塀。石畳に伸びる黒塀自体「いき」な代物といえるでしょうが、俗世とは隔てられた料亭を象徴したカラーリングであると知れば、よりいっそう、いきさを感じます。


黒塀が続く兵庫横丁の料亭街


先が見通せないかくれんぼ横丁の路地


本多横丁の旧待合・常盤屋。1950(昭和25)年築
料亭建築では来客への配慮も至るところに見られます。玄関先に突き出た庇は雨をしのぐためのもの。また、前庭は路地(俗世)と料亭との緩衝地帯としての役目をもつほか、玄関先で客どうしが鉢合わせないようにするための装置であると、窪田亜矢東京大学准教授は指摘しています。敷地の都合で前庭をつくれない料亭でも、1階の一部に前庭風のしつらえをもつよう努めています。


建物の一部を後退させ、緩衝空間を設けた料亭


神楽坂通りに面する高橋建築事務所社屋。1954(昭和29)年築

神楽坂には文化人が暮らした住宅地としての一面もあり、地元のNPO粋なまちづくり倶楽部では、そうした住宅建築の保全にも注力。建築家・高橋博(1902〜91)の自邸兼アトリエ(現・鈴木家住宅)や、高橋が設計したアパートの一水寮、高橋建築事務所社屋(現・アユミギャラリー)などを国の登録有形文化財にする運動を展開してきました。
しかし神楽坂では高層マンションの建設計画がしばしば生じており、そのたびに物議をかもしています。低層の料亭や住宅が都心の一画を独占するのは贅沢な話かもしれませんが、神楽坂にはいつまでも、そんな贅沢な町であり続けてほしいと思います。


昭和20年代築の一水寮(左)と高橋博自邸が向かい合う


料亭街から離れた住宅地の路地裏。これも神楽坂の一面


【住所】東京都新宿区神楽坂3〜6丁目、矢来町、横寺町、箪笥町、岩戸町ほか(花街は神楽坂3〜5丁目)
【公開施設】なし
【参考資料】
「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」松井大輔・窪田亜矢著、『日本建築学会計画系論文集』77巻680号(2012年10月)所収
『粋なまち神楽坂の遺伝子』粋なまちづくり倶楽部編著、東洋書店、2013年

2014年3月26日撮


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