神楽坂
かぐらざか
「いき」の実像
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「いき」について知るには、九鬼周造の快作『「いき」の構造』を読むのもいいですが、神楽坂を歩いてもいいでしょう。歩を進めるごとに、それまで曖昧模糊としていた「いき」が明確な像を結んでいくはずです。 |
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【1】路地裏の石畳は、ここが「夜の街」であることの証。アスファルトのなかった時代、夜でも歩きやすいように石畳が敷かれたのです。 |
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江戸時代の神楽坂は武家屋敷地でしたが、善国寺(毘沙門天)の門前には茶店が連なっていました。この茶屋街をもとに花街が成立したのは明治時代のこと。維新後、空き家になっていた武家屋敷に置屋や料亭が入ったのがはじまりとされます。1923(大正12)年の関東大震災後は焼け出された下町の芸妓が集まり、昭和初期にかけて全盛期を迎えました。 |
![]() 善国寺は今も町のシンボル |
![]() 善国寺(右奥)の向かいの兵庫横丁 |
神楽坂は1945(昭和20)年5月25日の山の手大空襲で全焼したものの、戦後いち早く復興し、料亭街が再生されました。その町並みは健在で、路地裏には石畳と黒塀が連なり、2階建ての料亭が連なっています。 |
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神楽坂ではいたるところに「いき」が具現化されています。たとえば路地裏の黒板塀。石畳に伸びる黒塀自体「いき」な代物といえるでしょうが、俗世とは隔てられた料亭を象徴したカラーリングであると知れば、よりいっそう、いきさを感じます。 |
![]() 黒塀が続く兵庫横丁の料亭街 |
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![]() 本多横丁の旧待合・常盤屋。1950(昭和25)年築 |
| 料亭建築では来客への配慮も至るところに見られます。玄関先に突き出た庇は雨をしのぐためのもの。また、前庭は路地(俗世)と料亭との緩衝地帯としての役目をもつほか、玄関先で客どうしが鉢合わせないようにするための装置であると、窪田亜矢東京大学准教授は指摘しています。敷地の都合で前庭をつくれない料亭でも、1階の一部に前庭風のしつらえをもつよう努めています。 |
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![]() 神楽坂通りに面する高橋建築事務所社屋。1954(昭和29)年築 |
神楽坂には文化人が暮らした住宅地としての一面もあり、地元のNPO粋なまちづくり倶楽部では、そうした住宅建築の保全にも注力。建築家・高橋博(1902〜91)の自邸兼アトリエ(現・鈴木家住宅)や、高橋が設計したアパートの一水寮、高橋建築事務所社屋(現・アユミギャラリー)などを国の登録有形文化財にする運動を展開してきました。 |
![]() 昭和20年代築の一水寮(左)と高橋博自邸が向かい合う |
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2014年3月26日撮影 |