新島
しんしま

水の気配は残って

利根川下流域には全国屈指の広大な沖積平野が広がります。歴史的な水郷景観は、香取市の新島にわずかに残されています。

【1】洪水対策として高さ1〜2メートルの土手を築き、その上に蔵(水屋)を建てています。
【2】さえぎるもののない広大な平地ゆえ風が強く、防風用と思われる生垣が各家にめぐらされています。
【3】家が集まる中心集落の外は一面の田んぼです。

千葉県の北東端、茨城県との県境に広大な干拓地が広がっています。天正18(1590)年から寛永17(1640)年まで50年かけて造成された土地で、徳川家康により新島と命名されました。このあたりは板東一の暴れ川、利根川の河口に近く、その後もたびたび流路の付け替えや新田開発が重ねられ、現在に至ります。


十二橋駅から見た新島の干拓地


新島に残る最後の水屋

海抜数メートルの低地帯に位置する新島では、水害から財産を守るための水屋がつくられました。水屋とは高さ2メートルほどの土手に建てられた蔵のこと。しかし戦後の土地改良事業によって水害の危険性が弱まると、歴史的な水屋は次々に姿を消し、いまは1棟しか残されていません。


水屋のある家の全景。主屋も歴史がありそうだ
新島の民家は多くが平屋建てで、敷地の周囲にイヌマキなどの植栽を設けています。吹きさらしの土地ゆえ、強風から家を守るためのものでしょう。一見して戦前もしくは戦後間もないころに建てられたと分かる古民家もあり、中にはドラマのロケに使われたという豪邸もありました。


古い寄棟民家が見える


イヌマキの生垣


新島の景観

 

 

水屋とともに新島を象徴するのが江間(えま)と呼ばれる水路。かつては湿田の間を縦横に走り、農作業に出る田舟が行き交いました。現在、あたりの田んぼは乾田になっているため江間は必要なくなり、遊覧船がめぐる加藤洲(かどうず)の新左衛門江間(前川)などを除き、ほとんどが失われました。


新左衛門江間


十二橋のひとつ上米橋

この新左衛門江間は全長400メートルほどですが、12本もの木橋が架けられ「十二橋」と呼ばれています。十二橋は加藤洲が開拓された17世紀初頭にはつくられていたようです。もともと隣家と行き来するための私道で、いまもほとんどの橋が私有地内にあり、2、3の例外を除いて渡ることはできません。
江間では水上交通を優先しているため、橋桁が水面からかなり高い場所に架けられていることも特徴です。


【住所】千葉県香取市磯山、加藤洲、扇島
【公開施設】なし
【参考資料】
『日本の文化的景観』文化庁文化財部記念物課監修、同成社、2005年

2014年3月29日撮


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