大神保
おおじんぼう

船橋の至宝ここにあり

船橋市は千葉県第二の人口を擁する都市で、中心街にはビルが林立し、郊外には住宅地が続いています。しかし市域の北東の外れ、白井市に接する大神保には、古い農村の風景が残されています。

【1】大神保の古民家はほとんどが寄棟、茅葺き。残念ながらすべてトタンで覆われていますが、規模の大きな家ばかりで、その迫力に圧倒されます。
【2】せいがい造りを多用するのは千葉県の特徴のひとつ。大神保の家もその例に漏れず、見事な意匠を見ることができます。
【3】付属屋では2メートルもの庇が印象的。この下で農作業をしたのでしょうか。
【4】集落は高台にあるため、冬の季節風と砂塵をよける防砂林がつくられました。

大神保は船橋市の北東の外れにある集落で、その歴史は鎌倉時代にさかのぼります。もともと村は水田耕作に便利な二重(ふたえ)川沿いの低地にあり、慶安年間(1648〜51年)ごろに何らかの理由(畑作への転換、水害、疫病などが考えられる)で高台の現在地に移転しました。万治・寛文年間(1658〜73年)ごろには東側に六軒新田を開拓し、以後、現在に至るまで「大神保」と「六軒新田」の2地区よりなる集落として存続しています。


大神保の景観。高台にあり、防砂林に守られている


屋号「金右衛門」。土間入口とは別に玄関(左)があり、風格が漂う

大神保の農家は規模が大きなことが特徴。市の研修施設「さざんかの家」として改修された安政5(1858)年の屋号「金右衛門」(旧中村家)は、間口9間、奥行5間半もあります。この家では南面から西面にかけてせいがい造りとなっていて、非常に堂々としたたたずまい。土間の出入口のほか、座敷に続く玄関、出格子などもそなえ、たいへん風格があります。

屋号「三郎右衛門」(松丸家)は大神保の庄屋を務めた家。主屋は当地に現存する最古のものでしたが、すでに建て直されています。しかし、せいがい造りの長屋門は現存し、濃密な屋敷林とともに昔と変わらぬ風景を見せています。


「三郎右衛門」長屋門。表側に出格子をもつ


「三右衛門」長屋門。1軒先に「三郎右衛門」長屋門がある

この「三郎右衛門」の東にある「三右衛門」(松丸家)、北西の「次郎右衛門」(泉對家)も社会的地位の高かった旧家です*。いずれも主屋は建て替えられていますが、長屋門が残されています。とくに「三郎右衛門」と「三右衛門」の2軒の長屋門が並ぶ光景は、“船橋の至宝”というにふさわしいと思います。(しかし屋敷林が濃く、2つの門を1枚の写真に収めることはできませんでした……)
*参考資料によると三郎右衛門は「庄屋」、三右衛門と治郎右衛門は「名主」。しかし庄屋と名主の違いは明記されていない。(一般に庄屋と名主は同義で、地方によって呼称が異なるものと解釈されている)


「次郎右衛門」長屋門


「次郎右衛門」の板塀と付属屋

 

 

「次郎右衛門」の北には屋号「長左衛門」(押田家)があります。「長左衛門」には文久元(1861)年に建てられたと伝わる主屋が現存。間口8間、奥行5間の大型農家です。庄屋・名主ではないので長屋門はありませんが、納屋などの付属屋も保存され、何より主屋へ至るアプローチがこのうえなく美しいと思いました。


「長左衛門」アプローチ


屋号「治郎兵衛」(中山家)の納屋

大神保で主屋と並んで目をひくのが納屋です。2メートルほどの下屋庇をせり出し、東京・練馬周辺の農家を連想させますが、なぜこうした外観なのかは分かりませんでした。東京の農家は冬の間、軒下で野菜を陰干しするために庇が巨大化しましたが、大神保でも同じような用途があったのでしょうか。

近代の都市化をまぬかれたおかげで、大神保には江戸・明治期の農家が多数残されました。1976(昭和51)年には船橋市が調査を行い、前年の文化財保護法改正で定められたばかりの重要伝統的建造物群保存地区を引き合いに、「生きた集落」としての保存・継承が提唱されていました。
しかし、その3年後には徒歩圏内に北総鉄道の白井駅が完成。これに前後して周辺では宅地開発が進み、大神保でも歴史的な主屋の多くが建て直されていきました。


屋号「長右衛門」(押田家)。古い主屋を残す


屋号「利右衛門」(中村家)は長屋門と主屋がセットで残る


「利右衛門」の長屋門越しに1896(明治29)年の主屋を見る

現在では古い主屋をもつものは10軒もないと思われますが、長屋門や納屋などの付属屋や、屋敷林と二重川がつくる風景は昔のままに保存されています。移築ではなく、旧地にそのままの姿で残る集落景観が60万都市にあるということは、もっと評価されていいでしょうし、周知されるべきことだと思います。


屋号「久右衛門」。明治中期の主屋の横に、大きな庇の離れが建つ


屋号「八左衛門」(中山家)。小ぶりだが旧態をとどめていそうな主屋

最後に1976年の調査報告書より引用させていただきます。
〈大神保の民家と集落は、そのままで江戸時代中期から末期にかけての農村の姿を残し、「民家園」や「明治村」よりもすぐれているといえる。それは、建築物で現に人々の生活が行われ、建築物の建立の意図・用途をいまだ損なっていない。すなわち、いまだ生命を持ち続けているからである。(略)大神保集落を生きた形で保存、保護されることを、地元の人たち、市当局に私は強く望んで、本調査の報告を締めくくる。〉
――大神保町民家調査団副団長・中山忠実氏


【住所】千葉県船橋市大神保町
【公開施設】なし
【参考資料】
『大神保の民家』船橋市教育委員会、1976年

2014年8月29日撮


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