布鎌
ふかま

盛土の上の家並み

輪中といえば濃尾平野が有名ですが、千葉県栄町の布鎌地区も地元で輪中と呼ばれています。北に利根川、南に将監(しょうかん)川が流れる低地で、洪水にそなえた村づくりの様子を見ることができます。

【1】四周を川に囲まれた低地のため、洪水対策として土地をかさ上げしています。
【2】本来、盛土の上には蔵を建てましたが、このように主屋を建てる家もありました。
【3】ところどころにイヌマキやツバキの生垣があります。吹きさらしの低地なので、防風対策としたものでしょう。

栄町の西半分を占める布鎌地区は、利根川、将監川、長門川に囲まれた楕円形の輪中です。江戸時代中期に新田として開拓されましたが、全域が標高2メートル程度の低地ゆえ、常に洪水の危険と隣り合わせでした。布鎌地区は全体が川の土手に守られているのですが、万一堤防が切れたらひとたまりもありません。そこで、緊急時にそなえ貴重品を保管する水塚(みづか)がつくられました。


将監川の土手から布鎌地区を臨む


布鎌地区に現存する水塚

水塚は、1〜2メートルほどの盛土の上に建てた蔵のことで、ほかの土地では水屋と呼ばれます。家財のほか、米や醤油、味噌、塩などの食糧を保管していました。
水塚はたいていの家にありますが、盛土の高さは家によってまちまち。早い話が、有力な家ほど高い盛土をこしらえ、より安全性の高い水塚をもつことができました。そのため大雨が続くなどして洪水の危険が高まると、有力者の水塚には周辺の家からも米俵を避難させていたそうです。

布鎌地区の古い家は、ほとんどが標高の高い南側に集中しています。新たに開拓された中部から北部にかけては、歴史的な水塚はあまり見られません。
また布鎌地区では、水塚のみならず主屋を盛土に建てたり、屋敷地全体をかさ上げして洪水対策としている家も見られました。


盛土の上に建つ民家


この家のように蔵(水塚)も主屋もまとめて盛土に建てるケースが多い


防風用の生垣がめぐる家。表通りから主屋に向かって50センチほど登っている


ほとんどの水塚は主屋の裏や生垣の陰にあるため、表通りからは見えにくい

水塚は治水事業が近代化した大正以降は建てられることはなくなりました。いまでは旧家にかろうじて残されているに過ぎず、役目を終えて取り壊されているものも少なくないようです。
地区内には2カ所、千葉大学と中央大学のゼミ生がフィールドワークを行っている水塚があると聞きました。土地の歴史を語る証人として、長く保存してもらえたら嬉しいです。


古そうな家も比較的多く残っている


イヌマキの生垣も見事だ


【住所】千葉県印旛郡栄町曽根、南
【公開施設】なし
【参考資料】
『日本の文化的景観』文化庁文化財部記念物課監修、同成社、2005年

2014年3月29日撮


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