吉田
よしだ

秩父の首都物語

蛇行する吉田川の両岸にまたがる吉田の旧道では、農家と西洋館が混在する、近代の街道筋らしい町並みが見られます。

【1】秩父の拠点が大宮郷(秩父駅周辺)に移るまで、この街道沿いが秩父の経済・文化の中心でした。
【2】吉田の町並みは1957(昭和32)年の大火でほぼ全焼。現在の建物のほとんどはその後再建されたものですが、この石造洋館のように戦前の建築も見られます。
【3】養蚕が盛んだったことを物語る平入り、2階建ての農家建築が点在しています。

天然の要害としてすぐれていた吉田に秩父氏が居館を構えたのは平安時代の11世紀末。同時に吉田には集落がつくられました。その後、秩父氏3代重綱から6代重忠(畠山氏2代)の時代まで(12世紀〜13世紀末)、武蔵国の荘官は秩父氏に統率されました。この時代は吉田の最初の黄金期ともいえ、武蔵の政治・経済の中心地になったと考えられています。


吉田の町並み。背後の高台が秩父氏の館跡(現・小学校)

街道沿いの東亜酒蔵の建築群

吉田が再び重要性を増したのが江戸時代。上州・信州に通じる秩父街道の宿場町となり、18世紀後半には秩父郡の宿場町の中で最も栄えました。しかし大宮郷(現在の秩父市中心部)の商人が勢力を増すにしたがい、中心性は失われていきました。
明治以降は教科書でおなじみの「秩父事件」で知られる通り農民生活は困窮しましたが、街道筋に位置したことから、大正期にかけては街村として一定の存在価値は見いだされていたようです。

吉田は1957(昭和32)年に火災にあい、石造の洋館などを除いて地区の大半が焼失してしまいました。これを機に商業地としての立場を追われましたが、再建された町並みは比較的保存状態がよく、地方の街村景観を留めています。
火災を乗り越えた建物のひとつが1918(大正7)年築の旧武毛銀行本店。レンガ造りで正面にタイルを張って仕上げ、階段まわりや天井などの仕上げも凝っています。


旧武毛銀行の正面外観

旧武毛銀行2階大ホールの折上天井

 

 

1927(昭和2)年ごろに建てられた旧町役場(歴史民俗資料館)

このほか一部の洋館や土蔵、火災後に再建された養蚕農家などが点在。往時の面影をよく残すことから、かつては町並みの保存・活用のためナショナルトラストも調査を行ったほどです。しかし調査後に解体された家も多く、吉田の町並みの行く末が心配されます。旧町役場を利用した歴史民俗資料館も、わたしが訪問したときには老朽化のため閉鎖されていました。


養蚕農家と思われる家は比較的多く残されていた


新井医院は1939〜40(昭和14〜15)年ごろの洋風建築


【住所】埼玉県秩父市吉田町下吉田
【公開施設】旧武毛銀行本店
【参考資料】
「平成13年度観光資源保護調査 旧吉田宿の町並み調査」社団法人日本観光協会、2002年

2010年4月24日撮影


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