川越
かわごえ

東京の幻影

重厚な蔵造りの商家が連なる川越の町並みは、明治の大火後に形成されました。その風景は、関東大震災で失われた東京の神田・日本橋界わいの生き写しのようです。

【1】耐火性を高めるため、外壁はしっくいで塗りごめました。これが「蔵造り」の家です。
【2】屋根は耐火性能のある瓦葺き。しかし関東の瓦は質が悪く、雨水がしみて棟を腐らせてしまったそうです。
【3】そこで棟の腐食を防ごうと、瓦を重ねて箱棟型に仕上げました。
【4】もこもこした造作は影盛(かげもり)。大きな箱棟に鬼瓦が埋もれないよう、考案されたものでしょう。
【5】軒下に合わせ、袖壁にも蛇腹が。ここまで見せ付けられては、ただ感心するしかありません。

川越は江戸の北部を守る城下町として整備され、江戸時代中期以降は関東北部の物資集散地として栄えました。現在の町並みは1893(明治26)年の川越大火後に再建されたもの。黒塗りの家がずらりと並ぶ光景は、関東大震災前の神田・日本橋の古写真にそっくりで、失われた東京の町並みをそのまま保存しているといえます。事実川越商人たちは、日本橋をモデルに復興にあたったといわれています。


この町並みは「日本の奇跡」と言うほかない

窓を見れば壁の厚みが分かる

川越商家は土蔵と同じ工法でつくられた「蔵造り」。江戸周辺に特徴的な商家建築です。
京都には同じく外壁を漆喰で塗った「塗屋造り」がありますが、蔵造りは外壁がより厚く(塗屋造りは5〜10センチ、蔵造りは20〜25センチ)、耐火性を高めています。

蔵造りは火に強いだけでなく、重厚で安定感のある外観は店の信用にも通じることから、各家では工費に糸目をつけず豪華な意匠が施されました。何段にもなった軒まわりの出桁(だしげた)や、巨大な鬼瓦、鬼瓦の後ろの影盛と呼ばれるしっくいの意匠などは、川越商家のシンボルといえるデザインです。


隅棟に箱棟。そして鬼瓦に影盛…。これはすごい!

平入りの見世蔵と妻入りの袖蔵が並ぶ亀屋菓子舗


石材を使った蔵造りもある


大沢家住宅(左)は蔵造りというより京町家の塗屋造りに近い

町並みの北部には明治の大火で焼け残った大沢家住宅があります。寛政4(1792)年に建てられたもので、建設年が明確な蔵造りとしては、関東地方に現存する最古のものとされています。
川越で蔵造りが普及したのは、大沢家住宅が焼け残ったためだそうです。

川越は関東地方でも有数の歴史的景観を残していますが、この町並みが継承されてきたのはひとえに地域の方々の努力があったからこそ。川越でも昭和40年代以降、道路の拡張や隣接地でのマンション建設などがたびたび計画され、町並みの保存が危ぶまれたこともありました。しかしその都度、住民による反対運動が展開され、さらには電線の地下埋設化などの美化運動も推進し、1998年には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
いまでは世界中から観光客が訪れる、日本を代表する歴史地区となっています。


蔵造りの町に洋風建築も混じる

明治の大火後に再建された「時の鐘」付近の町並み


軒行灯を掲げる商家が並ぶ


【住所】埼玉県川越市仲町、幸町、元町1・2丁目
【公開施設】大沢家住宅、川越市蔵造り資料館
【参考資料】
『写真でみる民家大事典』日本民俗建築学会編、柏書房、2005年
『滅びゆく民家 屋根・外観』川島宙次著、主婦と生活社、1973年
『未来へ続く歴史のまちなみ 伝建地区とまちづくり』全国伝統的建造物群保存地区協議会編著、ぎょうせい、2001年

2014年10月10日撮影


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