栃木
とちぎ
江戸に通じる水の道
栃木は江戸時代、日光例幣使(れいへいし)街道の宿場町として、また、物資集散の拠点として栄えました。市内には幕末以降の見世蔵が残り、「蔵の町」として町おこしが行われています。 |
【1】栃木には大動脈が2本ありました。陸の道が日光例幣使街道、そして水の道がこの巴波(うずま)川です。 |
元和3(1617)年、徳川家康が静岡の久能山(くのうざん)から日光東照宮へ改葬されると、にわかに栃木の重要性が高まりました。時の将軍家光の願いを受け、朝廷は家康を墓参する例幣使を毎年派遣することとしたのですが、彼らが通行する例幣使街道が当地を横切るようになり、宿場が開設されたのです。
|
|
巴波川沿いに連なる塚田家の蔵 |
やがて栃木は巴波川を介した物資の集散地として栄えるようになります。江戸からは塩や鮮魚が運ばれ、栃木からは木材や農産物が運び出されました。中でも塩や塩合物(塩魚や塩干物など)の商いは栃木商人が独占し、周辺に問屋の開業を認めなかったため、栃木はいっそう繁栄しました。栃木の黄金時代の面影は、巴波川に沿って120メートルもの敷地をもつ塚田家などにいまも見ることができます。 |
現在の栃木は巴波川や日光例幣使街道に沿って、土蔵や蔵造り商家が連なる「蔵の町」として知られています。町並みが蔵造りとなったのは幕末に頻発した火災がきっかけでした。現在、市内には400棟の土蔵建築が残るといわれていますが、日光例幣使街道の周辺はとくに密度が濃く、見事な町並みを見ることができます。 |
日光例幣使街道沿いの町並み |
|
観光案内所として利用されている土蔵造りの商家 |
200年前の土蔵3棟を活用した「とちぎ蔵の街美術館」 |
石材を用いた蔵も多い |
2013年10月5日、14年4月5日撮影 |