掛水
かけみず

銅に潤った町

かつて東洋一の産出量を誇った足尾銅山。明治以降、この山を制したのが古河(ふるかわ)一族でした。掛水には古河家の迎賓館や古河鉱業(現・古河機械金属)の重役役宅などが残されています。

【1】掛水の役宅は1棟ずつが板塀で囲われています。一般従業員が暮らした社宅街に比べ、一見して格上の町並みが展開していました。
【2】未舗装の砂利道や木製の電信柱など、懐かし要素でいっぱいです。
【3】瓦屋根をいただくこの家は、役宅街で最大規模を誇る所長宅です。

戦国時代からの歴史をもつ足尾銅山は1877(明治10)年、古河鉱業の創業者である古河市兵衛に買い取られ、以後近代化が進められました。山内には銅の採掘から精錬・輸送に至る施設が次々につくられ、本山(ほんざん)地区には足尾鉱業所の事務所などが設けられました。
しかし1907(明治40)年、賃上げや労働環境の改善を求めた労働者によって事業所施設などが破壊されると(足尾暴動事件)、掛水に移転。鉱業所長の役宅なども同時に移され、現在見られる役宅群が形成されました。


掛水の家並み

古川掛水倶楽部旧館

掛水の町並みの核となるのが、1899(明治32)年に建てられた古河掛水倶楽部。古河鉱業の迎賓施設として建設された洋風建築で、大正時代には隣接して2階建ての新館が増築されました。

掛水倶楽部の内部には応接室や食堂のほか撞球場(ビリヤード場)まであり、国内最古級と推定されるビリヤード台も現存します。また、渡良瀬川に面した建物裏手は一面ガラス張りになっていて、渓谷美を楽しめるようになっていました。
鉱毒事件や労働問題を抱えながらも、銅山を牛耳った上層部の暮らしはとても豊かだったようですね。


古河掛水倶楽部新館

幹部社員向けの役宅。現在、鉱石資料館

この迎賓館の南側に、暴動後に移転した事業所や重役宅がつくられました。事業所は老朽化のため戦後解体されましたが(付属倉庫は現存)、重役宅はほとんど手つかずの状態で残され、鉱業所長、副所長、課長などの住居が並んでいます。役宅は板塀で囲われ、表には未舗装の砂利道や木製の電信柱も現存。町全体が創建時の姿を留める鉱山役宅街は全国的にも稀だそうです。


板塀が続く役宅街。道の突き当たりに掛水倶楽部がある


旧足尾鉱業所付属倉庫
   
役宅の中では所長宅が一段と立派で、床面積はおよそ100坪。建物は和風の住居棟と洋風の接客棟から構成され、その違いは外観にも表れています。接客棟にはヨーロッパ風の応接室のほか、贅を凝らした和風の座敷も2室あり、足尾銅山で潤った古河鉱業の財力をいまに伝えています。
ちなみに公開されている役宅や古河掛水倶楽部は、内部撮影がすべてNG。というわけで、豪奢な所長宅も玄関まわり(下写真)しか撮影できませんでした。

足尾鉱業所長宅


所長宅の玄関まわり


重役の役宅群の北には幹部が暮らしたと思われる社宅が連なる


【住所】栃木県日光市足尾町掛水
【公開施設】古河掛水倶楽部、掛水重役役宅(※いずれも冬期休館)
【参考資料】
パンフレット「足尾銅山近代化産業遺産MAP」日光市教育委員会、2013年(第5刷改訂版)

2013年10月13日撮影


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