七日町
なぬかまち
焦土からの復興
戊辰戦争で壊滅的な被害を受けた会津若松には、明治期に復興した土蔵造りの家が残されています。古い家は市街の広範囲に点在しますが、七日町界わいは密度が高く、すぐれた町並み景観を見せてくれます。 |
【1】平入りの見世蔵と妻入りの袖蔵が並び建ちます。 |
七日町は若松城(鶴ヶ城)の北に位置し、会津五街道のうち米沢街道と越後街道が通り、江戸時代から近代にかけて若松の中心地でした。町名は毎月7日に市が開かれたことに由来します。現在、行政上は「なのかまち」と読ませていますが、駅名や道路名は土地発音の「なぬかまち」を採用しています。 |
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七日町の町並み |
ここは越後と出羽に通じる場所にあるため、江戸期には旅籠屋が軒を連ねました。現在では蔵造りの商家のほか、看板建築、洋風建築、レンガ蔵など多彩な建築が見られ、戊辰戦争後も繁栄を続けた町であることをしのばせます。 |
看板建築が並ぶ |
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中でも若松の繁栄を牽引したのが渋川問屋。越後から運ばれた海産物を集積し、ここを拠点に会津一円へ運ばれました。現在の建物は明治期のもので、2階に格子を入れた格調高い外観です。 |
渋川問屋。現在は旅館・料亭として営業中 |
古い家並みが残る |
七日町の現在の町並みは明治以降に再建されたものです。ここは戊辰戦争の最終決戦地であり、若松城は1カ月の籠城に耐え抜きましたが(しかし損傷が激しくその後解体)、町並みも壊滅的な被害を受けました。戦後、地元の有力商人が町の復興を支え、土蔵造りの商家を次々と再建したのです。 |
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こうした歴史をもつ会津若松は、戊辰戦争の史跡の宝庫でもあります。七日町駅の向かいの阿弥陀寺もそのひとつ。境内には1300名の戦死者が埋葬され、過去をしのんで参拝する観光客が絶えません。 |
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2014年9月22日撮影 |