七日町
なぬかまち

焦土からの復興

戊辰戦争で壊滅的な被害を受けた会津若松には、明治期に復興した土蔵造りの家が残されています。古い家は市街の広範囲に点在しますが、七日町界わいは密度が高く、すぐれた町並み景観を見せてくれます。

【1】平入りの見世蔵と妻入りの袖蔵が並び建ちます。
【2】壁を土蔵造りとしたのは不燃都市をめざしてのことでしょうか。
【3】洋風建築が散見されます。大正から昭和戦前にかけても会津の中心地として繁栄を続けた証です。

七日町は若松城(鶴ヶ城)の北に位置し、会津五街道のうち米沢街道と越後街道が通り、江戸時代から近代にかけて若松の中心地でした。町名は毎月7日に市が開かれたことに由来します。現在、行政上は「なのかまち」と読ませていますが、駅名や道路名は土地発音の「なぬかまち」を採用しています。


町の西にある七日町駅。大正モダンをテーマに2002年に竣工


七日町の町並み

ここは越後と出羽に通じる場所にあるため、江戸期には旅籠屋が軒を連ねました。現在では蔵造りの商家のほか、看板建築、洋風建築、レンガ蔵など多彩な建築が見られ、戊辰戦争後も繁栄を続けた町であることをしのばせます。


看板建築が並ぶ


洋風の近代建築も点在する

中でも若松の繁栄を牽引したのが渋川問屋。越後から運ばれた海産物を集積し、ここを拠点に会津一円へ運ばれました。現在の建物は明治期のもので、2階に格子を入れた格調高い外観です。


渋川問屋。現在は旅館・料亭として営業中

古い家並みが残る

七日町の現在の町並みは明治以降に再建されたものです。ここは戊辰戦争の最終決戦地であり、若松城は1カ月の籠城に耐え抜きましたが(しかし損傷が激しくその後解体)、町並みも壊滅的な被害を受けました。戦後、地元の有力商人が町の復興を支え、土蔵造りの商家を次々と再建したのです。


永山陶磁器商店。幅1.5メートルほどの窓ガラスをはめている


レンガ造りの商家

 

こうした歴史をもつ会津若松は、戊辰戦争の史跡の宝庫でもあります。七日町駅の向かいの阿弥陀寺もそのひとつ。境内には1300名の戦死者が埋葬され、過去をしのんで参拝する観光客が絶えません。
ところでこのお寺には若松城から移築された「御三階」と呼ばれる建物があります。名前に反して内部は4層構造になっていて、かつては密議の場所だったと伝えられています。


阿弥陀寺の御三階


【住所】福島県会津若松市七日町
【公開施設】なし
【参考資料】
『角川日本地名大辞典(7)福島県』角川書店、1981年
『別冊太陽 日本の町並みIII 関東・甲信越・東北・北海道』平凡社、2004年

2014年9月22日撮


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